2019年8月23日 時間
存在-関係 という文字列を見て,その通りだなと思った。
今ある自分の存在を書き記すことと,世界と関係し続けるために,日記をなるべく書いていきたいなと思った。
私にとって生活の時間を共有できる人たちはとても少ないが,世界(時代とも言っていい)を共有できる人も限られるのだから,寂しいことだなと思う。その寂しさを紛らわすために,何かを書き記していきたい。
最近ポケモンGOを始めて,街中にある不思議な建築物や古い神社・場所,それから繁華街にある銅像にそれぞれ名前があることを知った。面白いなと思った。
特に関内駅の近くにある,圧力をかけて潰された球みたいなオブジェに『忍耐』という名前があるのを知って良かった。
9月に行く旅行の予定を立てた。宿泊地は綺麗な部屋がいいというだけの理由で選んでしまった。
ふと思ったがひとりで宿泊する旅行はこれが初めてだ。自分や環境は変わっていくのだなと思った。
エルデシュのように世界中を巡って色んな人と色んな数学をしながら生きてみたいなと思う。美しいものを見たり,人と素晴らしき何かを見出すことに体験をして過ごしたり,とにかく主観的な発見の中で暮らしていたい。今は思うだけだが。
やるべきこととやりたいことが増えて,死ににくくなると,どうせ生きて長く時間を過ごそうとするなら幸せを目指そうかなという気持ちも湧いてくる。
どうやらするべき数学をすることだけでは人は幸せには成れないらしいから,他に何をすれば幸せになれるのか考えている。自分は今まで自分が幸せになっていると思ったことがないから,どの状態が幸せなのかわからない。
別に自分が不幸だと思っているわけではなくて,数学とインターネットと,音楽を聴くことと布団で寝ることと,エアコンをつけることとご飯をたまに食べることが今のところできているから,不幸ではないなと思う。
人間の幸せのモデルケースは,生殖をしたり家庭を持ったりして自分が選んだ愛すべき誰かを支えることに充実感を見出したり,一体感を持って寄り添って生きることだと語られる。あるいはもっと欲望に率直な,えらい職や権威やお金を持つことで気持ちを満たすこと,その二つで語られる。
お金は使おうとして使った試しがないから,欲しいと思うことがない。
というかお金があったら何ができるか想像がつかないから,欲求がわかない。
就職でもして稼ぐようになったらそういった気持ちがわかるようになるだろうか。
家庭や生殖の話は,よくわからない。
人々は家庭の話になるとマッチョ的で家父長的な男性への憧れだったり,内向的で家で家事に勤める女性への憧れだったりを持っていることが多い。
そういう性の願望が普段の人々の生活の中から透けて見えてくると気持ち悪いなという気分になる。別にこの形の願望が無理なのではなく,知性に興奮するとか,何でもいい。そういう性の願望が性ではないような扱われ方をして,当然のように露わにしてくる人間の社会や生態が無理だ。
もっと端的にお持ち表明ツールであるところのインターネットでそういったものをたくさん見るし,そういった性の願望なり何なりに自分も全く他人事ではないしどうにかしてほしい。社会の中にある人間の生殖欲求が大きな力を成して渦のようになっていて,それがどこにいても目の前のことのように見えていて,夏になるとセミがたくさん鳴いていて,勘弁してほしいなと思う。こういう気分を克服して,生殖と家庭の世界に自分を組み込んでいくと人々が言うような幸せを自分も手に入れられるのだろうか。
自分が求めているのは,発見の体験と美しいものを見ることで,そこに他人や物質は副次的にしか関わってこないのかな,とも思う。であればきっとお金も家庭も目的にはならないのだろう。求めているものと,幸せがずれてしまうのかな,と思う。わからない。
今日は抽象的なことを書いてしまった。もうやめる。