逆数学の未解決問題のいくつか
はじめに
ここでは,逆数学の未解決問題について最近知った話題をまとめる。逆数学の未解決問題は様々あるが,広範囲についてのまとめではなく私が気になったものと今現在知っているものが中心的になる。この記事は今後更新する可能性が高い。
逆数学とは,数学で既に知られている個々の定理を証明するにはどういった公理系が必要十分であるか,ということを検証する数学基礎論のプログラムである。
通常の数学は のような集合論の公理系をベースとして展開されるが,通常の数学で扱うような定理の逆数学を行うには集合論の公理系は強すぎることが多い。
そこでペアノ算術にその二階部分を扱う公理図式を追加した二階算術で,逆数学の舞台となる公理系を用意するという研究が発達している。(この形では本質的に可算な構造しか扱えないため,高階算術を用意するといった研究も調べられている。ここではそういう話はしない。)
古典的な結果として,五段階の強さに分かれる二階算術の部分体系(公理系)で逆数学は概ね行えることが判明している。(これを逆数学現象とかBig five 現象などと呼ぶ人もいる。)
その例外となるケースも多く知られており興味の対象となっている。
逆数学の既に知られている結果の簡単な一覧はWikipediaで見れる。
ここで 上で と同値となる定理の項目で
"ラムゼーの定理の一形態などを例とする組合せ論の諸定理" という記述がある。まずはこれについて少し話す。
Ramsey理論周辺
Ramseyの定理の主張を見るための準備をする。
の部分集合であって 元からなる集合の全体を で表し, 元集合を単に と書く。 を着色という。
が着色 で等質集合であるとは, の任意の 組が で同じ色になっていることをいう。
自然数ごとに次の主張を定める。
: 任意の着色 について等質な無限集合が存在する。
: 任意の について が成立する。
のとき と は と同値となることが知られている。
また, のときは は と同値であることが比較的簡単にわかる。(これは Simpson の Subsystems
of second order arithmetic にも書いてある)
では はどうか。これは逆数学現象に当てはまらない例として知られているようだ。つまり, は 上で より真に弱く,そして弱ケーニヒの補題とは比較不可能であることが示されている。
すると, で何が示せるか,という疑問が出てくる。
問題 からアッカーマン関数の全域性や の整列性は証明できるか?
これらは や からは証明可能である。一方ではどちらも示せない。
の強さは興味を持たれていて色んな問題や予想が立っている。
魔境っぽい感じだったので詳細を書くことをやめたがいつかまとめたい。
Hindmanの定理
どのように自然数全体を 個の類に分割しても,無限集合 であって の元の有限和全体 がある類に含まれるようなものが存在する
という主張を Hindman の定理という( と表す)。*1
と は知られているが,それ以上はまだわかっていないらしい。
ここで は である。(はのωチューリングジャンプである。)
問題 の強さを特定せよ
代数
Wikipediaで と同値となる定理を見ると,可算被約アーベル群に対するUlum の定理というのがある。
ざっくり見ると被約という条件があれば可換群の定理は で扱え,被約性を外すと が出てくるらしい。
そこで次のような問題が出ている。
問題 次のふたつは と同値か?
・ を可算ねじれ可換群であって と が同型となるものとすると, と は同型である。
・ を可算ねじれ可換群であってそれぞれはもう片方の直和因子となっている。このとき と は同型である。
Friedmanはこれらの成立と,またこれらは被約性を付加すれば と同値になるだろうと予想している。*2
他には,アルティン環はネーター環である,という定理が を導き, から導かれるということが判明している。この定理の強さはどうなるか?という問題が残っている。*3
ジェネトポ
二階算術では完備可分空間がうまくコード化できるので解析学などの定理はその上で調べられるが,ジェネトポをやるにはこれは微妙である。そこでMummer と Simpson により第二可算な位相空間について 空間というものを用いて調べることが考えられている。
を半順序集合とする。 に対して定まる 空間 とは,点を の極大フィルターとし, で を基として定まる位相が入った空間である。
空間について次のことがわかっている。
空間に制限したUrysohnの距離化可能定理 : 空間が距離化可能であることと正規であることが同値 は, 上で と同値
しかし, 空間が逆数学をするのにどのくらいふさわしい空間なのかはまだわかっていないようだ。例えば次のような問題がある。
問題 空間における Alexandroff の一点コンパクト化の定理の強さはどのくらいか?
おわり
数学の定理の数だけその逆数学が考えられるわけだから,たくさんの問題がまだあるのだと思う。
色んなことを書きたかったが,疲れたのでこの辺で一旦やめることにした。今後更新すると思われる。
逆数学の未解決問題についてもっと色んなことが次の文献で載っている。
ANTONIO MONTALBÁN, OPEN QUESTIONS IN REVERSE MATHEMATICS
https://www.jstor.org/stable/41228534?seq=1
またRamsey型の定理の逆数学の魔境っぷりは次に詳しく書いてある。
Ludovic Patey, Open questions about Ramsey-type statements in reverse mathmatics
https://ludovicpatey.com/media/research/open-questions.pdf
同著者によるRamsey型の定理に関する逆数学についてのthesisもあった。参考にしたい。
Ludovic Patey, The reverse mathmatics of Ramsey-type theorems
[1601.04428] The reverse mathematics of Ramsey-type theorems
おわり
*1:Hindmanの定理の証明は色々知られていて,離散半群のストーンテェックコンパクト化から得られたりする。ここにそういう話が載っている https://o-ccah.github.io
*2: https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3158238
2019年11月13日 ペンギン
何もない日々を無意味に過ごすのではなく方向性を持つこと。
死ぬまでの間の時間を消費するという危機感を持って過ごしている。最近ずうっと意識していたことは,自分の信念を貫くこと,それはつまりやるべきことをやる(もっと具体的には数学それから最近は音楽と物理に興味がある)ということと,特別な人との関係を保つことだった。
だが,二つのめの目標がさらっと消えてしまった。
その予兆は何となく冬から感じていてずっと焦燥感があったが,その焦燥感から間違えてしまわないために落ち着こうとずっと自分に言い聞かせていた。
落ち着くというのはそれを保留にするとか余裕を持つとかそういうことで,つまり「その物事を考えない」ということだった。
悠長に構えた意味は特になく,というか最初から全てに意味は特になく,まあ終わってしまった。
関係性はまだ消えてないのかもしれないが,「特別」では無くなってしまった,もう特別では有り得なくなってしまった時点で,「特別な関係性」ではなくなってしまったから終わりだ。
特別な関係性というのは人生にとって重要な意味を持っているものなので,当然巨大な意味の喪失に途方に暮れてしまった。
人は孤独に生きるのが怖いので,誰かが自分を肯定してくれていること,自分が誰かを肯定していること,その相互性に強い意味を預けてしまう。しかしわたしの場合は,そんなそうごせいはわたしが勝手にそう思い込んでいるだけのものだった。
最初はかなり辛かったが,揺るぎない喪失の事実が自分に何をもたらすかということを反省し始めると,これが新しい節目となって今まで考えてきた人生の方向性とは全く違う道へ進む自由が自分に与えられたのだと思えてきた。
その感覚にワクワクすることもできたが,やはり喪失した意味の大きさや失った時間の大きさを思い出すと辛くなる。
特に,それが単に自分が特別な意味を与え合っていると思い上がって過ごしてきただけという事実に,自分への強い不信感・自分というものの無意味さを感じてしまう。
この自分が無意味なものであるという感覚はどうやっても逃れようがなく,とにかく気をそらし続けるしかない。
未来のことを考えている時間は,新しい自由さにワクワクできる。
過去のこと,自分のこと,失ったもののことを考え始めるととにかく辛い気持ちになる。
だから,前だけ見て,他の物事はとにかく考えないことにし,目をそらし続けるしかない。
2019年8月23日 時間
存在-関係 という文字列を見て,その通りだなと思った。
今ある自分の存在を書き記すことと,世界と関係し続けるために,日記をなるべく書いていきたいなと思った。
私にとって生活の時間を共有できる人たちはとても少ないが,世界(時代とも言っていい)を共有できる人も限られるのだから,寂しいことだなと思う。その寂しさを紛らわすために,何かを書き記していきたい。
最近ポケモンGOを始めて,街中にある不思議な建築物や古い神社・場所,それから繁華街にある銅像にそれぞれ名前があることを知った。面白いなと思った。
特に関内駅の近くにある,圧力をかけて潰された球みたいなオブジェに『忍耐』という名前があるのを知って良かった。
9月に行く旅行の予定を立てた。宿泊地は綺麗な部屋がいいというだけの理由で選んでしまった。
ふと思ったがひとりで宿泊する旅行はこれが初めてだ。自分や環境は変わっていくのだなと思った。
エルデシュのように世界中を巡って色んな人と色んな数学をしながら生きてみたいなと思う。美しいものを見たり,人と素晴らしき何かを見出すことに体験をして過ごしたり,とにかく主観的な発見の中で暮らしていたい。今は思うだけだが。
やるべきこととやりたいことが増えて,死ににくくなると,どうせ生きて長く時間を過ごそうとするなら幸せを目指そうかなという気持ちも湧いてくる。
どうやらするべき数学をすることだけでは人は幸せには成れないらしいから,他に何をすれば幸せになれるのか考えている。自分は今まで自分が幸せになっていると思ったことがないから,どの状態が幸せなのかわからない。
別に自分が不幸だと思っているわけではなくて,数学とインターネットと,音楽を聴くことと布団で寝ることと,エアコンをつけることとご飯をたまに食べることが今のところできているから,不幸ではないなと思う。
人間の幸せのモデルケースは,生殖をしたり家庭を持ったりして自分が選んだ愛すべき誰かを支えることに充実感を見出したり,一体感を持って寄り添って生きることだと語られる。あるいはもっと欲望に率直な,えらい職や権威やお金を持つことで気持ちを満たすこと,その二つで語られる。
お金は使おうとして使った試しがないから,欲しいと思うことがない。
というかお金があったら何ができるか想像がつかないから,欲求がわかない。
就職でもして稼ぐようになったらそういった気持ちがわかるようになるだろうか。
家庭や生殖の話は,よくわからない。
人々は家庭の話になるとマッチョ的で家父長的な男性への憧れだったり,内向的で家で家事に勤める女性への憧れだったりを持っていることが多い。
そういう性の願望が普段の人々の生活の中から透けて見えてくると気持ち悪いなという気分になる。別にこの形の願望が無理なのではなく,知性に興奮するとか,何でもいい。そういう性の願望が性ではないような扱われ方をして,当然のように露わにしてくる人間の社会や生態が無理だ。
もっと端的にお持ち表明ツールであるところのインターネットでそういったものをたくさん見るし,そういった性の願望なり何なりに自分も全く他人事ではないしどうにかしてほしい。社会の中にある人間の生殖欲求が大きな力を成して渦のようになっていて,それがどこにいても目の前のことのように見えていて,夏になるとセミがたくさん鳴いていて,勘弁してほしいなと思う。こういう気分を克服して,生殖と家庭の世界に自分を組み込んでいくと人々が言うような幸せを自分も手に入れられるのだろうか。
自分が求めているのは,発見の体験と美しいものを見ることで,そこに他人や物質は副次的にしか関わってこないのかな,とも思う。であればきっとお金も家庭も目的にはならないのだろう。求めているものと,幸せがずれてしまうのかな,と思う。わからない。
今日は抽象的なことを書いてしまった。もうやめる。
2019年7月29日 日記
最近よく日記を書いている。単に一過性のマイブームのようなもので,そのうち飽きるだろう。
まともに稼働するノートパソコンがほしいと5億年くらい思い続けていたが,最近新しいノートパソコンを買って,手に入れた。
Apple Storeではクレジットカードなしでローンを組んで購入できるという理由だけでmacを買った。
もしクレジットカードを使っても良いということならファーウェイとかの強そうなやつを買っていただろう。
(大学生になったとき大学の生協と提携してるクレカを作ろうかと思ったが,親が生活保護を受給する前はクレジットカードの多重債務者で,何らかの弁護士法人から毎日 脅しの手紙が届いているのを見てからなんとなくクレジットカードが怖いという印象があって,作っていない)
最近は暑くて,暑いなと思う。
幼い頃は季節に対して敏感に反応するのはそういうことしか見るものがない老人のしぐさだと思っていたが,それによれば自分ももう老人なのかもしれない。
セミは地上に出てから七日間しか生きないとよく言われるが,実際には二十日くらい生きているらしい。世の中に広まることばがいかに適当であるかと思う。
「セミは地上に出てから七日間しか生きられない」という話を聞くたびに,きっと江戸時代とかに誰かが地中から出てきたセミが死ぬまでを観察したんだなあとか漠然と思っていたから,そうでないらしいと知ってクソだと思った。
いろはすが果汁0パーセントなのにくだものの風味がありすぎて怖いというのは私はいろはすの味付き(たしか最初はみかんだったと思う)がこの世に出たときからずっと言い続けていたが,あまり同じことを言う人を見かけなくて寂しく思う。
家の周りには野良猫がたくさんいる。猫というのは常に下痢みたいなくさい糞をする。
野良猫は草むらや空き地で糞をするのだが,最近なぜか近所の人たちが草むらや空き地を全て封鎖したので野良猫が道路のど真ん中で糞をするようになって,道路が常に臭い。やめてほしい。
ぐんぐん育つ植物,ヒマワリのような,を見るとその動的な様子に怖くなる。結局わたしが植物が好きだと思っているのは相手が弱く無抵抗な存在だからなのかも知れない。
そう思うと自分が嫌になる。
2019年7月22日 プロメアの感想
プロメアの感想です。
ネタバレ全開 (ちなみにわたしはネタバレについてこと細かく注意する宗教的な立場を取っていないので細かく注意しません)
先月からずっとお金が入ったら映画を観に行こうと心に決めていた。
お金が入ったので今日は最寄りの映画館でプロメアを見てきた。
海獣の子供かプロメアかだったから見ようか悩んでいたが,最近の暗い気持ちを晴らすべく派手な映画を見ようと思ってプロメアを見た。期待通り,派手だった。
(実は家を出たのが上映開始時刻の25分前で,映画館は電車で4駅ほど遠い場所にあるからこれ間に合わないのでは?と思っていたが,バスと電車を適度に組み合わせたらギリギリ間に合った。これが変分原理というやつですね)
映画を観た後にイラストとか感想とか調べようと思ったけど,長ったらしい他人の感想を見たりpixivから好きなイラストを探し出す気力がなかったので逆に感想を書くことにした。箇条書きで書いていく。
・バーニッシュの差別や迫害の解決について
ある属性の"ひとたち"が既存の人類社会の形に相容れないため,マジョリティである人類社会から迫害を受けたり,対立が起こるというタイプの作品は最近よくある。
例えば東京喰種はそうだろうし,現実での差別や迫害をテーマにした作品などは全てそうだろう。
こういった作品のいくつかでは最終的にその属性のひとたちが全員"ふつうの人間"になるという治療をもって,"解決"となるエンディングがあることが多い。
自分はこのタイプのハッピーエンドはどうかと思うことがあって,迫害されてきたひとたちのその属性は確かにアイデンティティであって,それを消すことは解決ではないだろうと感じる。
今日見たプロメアもバーニッシュがすべて人に戻りエンドという内容だったが(巨大なネタバレ),これに対していまいったツッコミは当てはまらないだろうということを最初に書きたかった。 バーニッシュの問題とは,プロメアが地球に来てしまった事故が由来であり,これは属性の問題というよりは事故の問題だろうと感じた,というだけ。
・ロボットについて
事前情報はほぼ何も調べていなかったがツイッターでイラストが流れてくるので登場人物の顔はなんとなく把握していた。
冒頭からロボットがたくさん出てきて,イラストではあんまりロボットを見なかったので(たぶんイラストレーターの方が大変であんまり描かないのだろう),「ロボットが出る系なのか」と身構えてしまったが,ロボットそのものは道具的な存在であってあまり強調されていない感じがロボット系アニメに馴染みのない自分でも受け入れやすかった。
特に簡単にロボットが破壊されて,新しいものに乗り換えたりする感じは道具的だなと思った。
(なんとなく知っているロボット系アニメはロボットに対して強い執着を持っているイメージだったが,プロメアはあまりそうではなかった)
最終的にドリルが出てきたり,ロボットが天体規模でデカくなったりするのはいつも通りだなと思った。(と言ってもグレンラガンは少ししか見てないのでにわかなことしか知らないが)
・冒頭や最初の火消しと戦闘シーンについて
冒頭の世界各地でのバーニッシュが描かれるシーンは映画の開幕っぽくてよかった。
最初にガロとリオが戦うシーンは東京モード学園のCMのかっこいいやつが30分くらい続いてるみたいな感覚があってすごかった。
・BGMについて
よかった。自分は映画でBGMが場面に合っていないとセリフとか演出とかがすべて芝居っぽく見えてしまうのだが,あまりそういうことはなくて,熱くてハードでシリアスなシーンでもノリノリで見ることができた。
・クレイについて
堺雅人が本気で叫び声を出してるのが聞けてめちゃくちゃ面白かった。
・リオについて
リオの服装がだんだんはだけていくのがえっちだった。特に終盤にはリオが上裸になってガロと二人で並んだことでふたりの体格の対比が,いや,これ以上は気持ち悪くなるのでやめておこう。
・キスシーンについて
めちゃくちゃ良かった。ガロとリオがキスするの,めちゃくちゃ良かった。
おわり
2019年7月21日 タニシ
むかし,よくタニシを見ていた。
小学校の教室には,各辺30センチメートルの立方体のような水槽があって,そこにメダカが閉じ込められていた。
そしてそこには何故かタニシが現れた。
何日か経つとタニシは増えたが,増えすぎるということはなかった。
増えすぎると苔(?)を食べ尽くして食料不足で死ぬのだろう。
水槽の底には死んだタニシの貝殻があった。
タニシはなぜ現れるのだろうと思った。
それは水槽に入れられた水草に卵が付いていたからだと思うが,目に見えない小さな卵から目に見える大きさの貝殻を残して死んでいくのは,無から有が生まれるようで不思議だった。
タニシの不思議は他にもあった。水中から体を逆さにタニシは水面をつたうように移動していた。
タニシを眺めていたのは,きっと雨の日の教室だったろうと思う。
小学校や中学校に通っていた頃は,雨の日でも暑い夏でも休むことなく学校に行っていた。
むかしは自由がなく,休むことができなかったからだ。
雨の日の学校は,雨が降る外の世界と隔離されていて,何か安心できる場所のようだった気がする。
大人になるにつれて自由が増えたから,雨の日や暑いに夏の日に外に出かけるということは少なくなった。
雨の日は部屋に閉じこもり,薄い屋根を叩く雨音を煩わしく思いながら布団にくるまった。
夏の日はカビくさいエアコンで気温を下げて,冷風を寒すぎだと思いながら布団にくるまった。
とにかく大人になってからはずっと寝ている気がする。
学校にいない時間が増えると,外から隔離される時間が無くなったように感じる。
家で寝ている話をしても仕方ないから,遠くに行った話をしよう。
子どもの頃は知らないところに行くのが好きだった。知らない場所のお祭りや,知らない海沿いの工場などを好んで行った気がする。
とは言っても小学生の頃はどこでお祭りがいつやるかなんて知らなかったから,とにかく遠くへ行こうと自転車で夕方まで進み続けて,たまたま見つけた神社で縁日があったとか,そんな程度だった。
海沿いの工場というのは,本牧埠頭だとか,磯子や根岸の工場地帯とか,川崎の工場地域のことで,色んな思い出がある。
工場地域周辺の住民(とくに川崎の怖い老人など)は怖かったのであんまり近寄りたくなくて,人が全くいない本当の作業区域をなんとなく歩いていたことが多かった気がする。
そういうところは,今も夜になんとなくいくことがある。
人がいない工場はいいところなので,みんなも見にいくといいと思う。
自分はよく世界が沈没して塩錆びた街を歩くような夢を見るが,幼い頃に海沿いで横浜や川崎の寂れた工場を見歩いていた体験がモデルになっているのではないかと思う。
書く気力がなくなってきたから,この辺で話をやめる。