読む毒

8歳の女児です。東京大学理科1類を目指して浪人をすることになりました。このブログを読むとあなたの貴重な時間が消えます。

2017年6月23日 初夏17時

髪が伸びた。髪を切っ
た。風が首を撫でるの
は久しぶりだから、自転車を漕いでいたら海
があった。等間隔のベンチ、
パウリの排他律
でもそこにいるのはカ
ップルじゃない暇そう
な若い男性たち、土曜
日だから酎ハイを飲んで、ああ

 

 

自転車を留める。バイクが並んでいる。太い道路に車が走る、赤レンガ倉庫の前のタイヤ痕、きっと誰かが車で遊んだ。パトカーに追われたかもしれない。

 

 

赤レンガ倉庫、原っぱ、茶色くて楕円形の落ち葉、クローバー、白くて
小さな花がばら撒かれたように。で
も踏まれて汚い、綺麗、ではない
。小さな子供が通る、ぼくの足よりも背が低い、


「すいません」小さな声で横切る、ぼくは何も言わない、この子はぼくよりも礼儀
ただしい。

 

座る人々、2人組、2人組、2人組……

 

棒を伸ばす、スマホを括り付けて自撮り棒、カシャリ、カシャリ。
イヤホンをつけて1人歩く女性、白い長いスカート、ぼくを睨む、ああ

 

風が吹く、木が騒ぐ、鐘が鳴る。高い金属のおと。甲高くて薄いおと。うるさい、笑ったカップル、縁結びの鐘、そんなことしなくても縁は結ばれてる。

外国人、集団、まとまって、荷物を持ち

端に寄る


釣りをする大人たち、ねこがいる、オジサンに甘えている、鳥がいる、ハト、スズメ、スズメ、ハト、スズメ、スズメ、スズメ、スズメ…… 塩くさい

 

引き上げられた魚、銀色、反射して、きらめく、小さな、
跳ねる

銀のスプーンのように、跳ねる、反射して、アスファルトの上で

走る大人、ランニング、コース上ぼく回避して、木の枝

 

誰もいない、いやいる。
どこだここ、海の向こう、建物が多い、近い、象の鼻パーク
らしい


連なる見える、四角、立体、窓、窓、タワー、アンテナ、「何してんの」ああ後ろのカップル、いや何してんだ彼氏さん危ないから柵の向こう
に戻って。

 

大桟橋、ひとが蠢く、小さな点みたい、アリみたい、ハトが、落書き、海の向こう、白く霞む、橋、塔、クレーン、建物、光、チカチカ、チカチカ、ベンチ、2人組、頬ずり、海の向こう、光る、工場?、白い箱、箱、立体、塔。

 

船がよぎる、裂かれた海の波面が広がる、広がる。

 

広がってい
るらしいよ

 

赤レンガ、夕焼け、ランドマークタワー、屋台、ラーメン?、食えばいい、お腹すいた窓ガラス長い、カフェテリア、オシャレ、はあ、よくも飽きずこんなにひとが、経済を回して、バイトさんこんなにひとがいたらきっと忙しい。
不思議なもんだ、帰ろう

 

2017年6月5,6日 大きな絵,紫陽花

お腹が空いた。

気付いたら朝になっていた。ミュシャ展へ行った。今朝は着物が家に届いたからそれを着た。雪駄が歩きにくかったがやがて慣れた。着物は涼しいのでこれからも着て良いかもしれないと思った。

 

中目黒に着いた。ファッションモデルのような服装なひとたちがたくさんいて、僕しか着物を着てないので少し気が引けた。でもむしろ私服でここに来るよりかは誤魔化せて良いかなと思えた。Air Jordanを履いてるひとがいたり、Raf Simonsのozweegoを履いてるひとがいたり、off-whiteのデニムジャケットを着てる金髪の女のひとがいたり、中目黒はすごい街だと思った。

 

六本木についた。歩いていたら新国立美術館についた。待ち時間100分の間に僕の前に並んでいた白髪混じりの女性が僕を撮影した。僕は断れなかったけれど本当は恥ずかしくて、ただ鼻頭と額に汗がにじむのを拒んでいた。

 

ミュシャ展に入った。スラブ叙事詩は全20作で、それを見ているだけで1時間20分も経っていて、とにかくお腹が減った。それから、4時間しか寝てないので眠かった。普段10時間寝てる僕からすれば4時間は十分に短い。

 

スラブ叙事詩を見終わって、ポスターを見た。良かった。とてもね、スラブ叙事詩よりもやはりポスターの方が見応えがあったかもしれない。

 

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これはねこ

 

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盲目の老人と、聖書を読む若きMuchaがモデルの青年

 

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ハーブを弾くMuchaの娘がモデルの女の子

 

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ぼく

 

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Slavは人類のために

 

ぶっちゃけスラブ叙事詩よりもポスターのがうんと好き。

 

iPhoneのカメラが壊れているので、写真は全てiPadで撮った。それを新国立美術館のフリーWi-Fiを使ってiPhoneに送った。Mucha展はかわいい女の子が多かった。いつか趣味や性格の合うような人と僕が交際したりしたときに、この中の誰かがその人だったりすることもあるのかな、なんてふと思った。恋をしていない今は新しい恋に想いを馳せるしかないからね。

 

Mucha展が終わった頃には着物疲れと寝不足と空腹と、寝不足による頭痛があって最悪な気分になっていた。面白くない。うずくまっていたら知らない人に心配されたのでこれではいけないと思って歩き出した。もちろん、日記で悪いことばかり書いている今だって本当はいけない。

 

横浜で好きなラーメン屋に行こうとしたら改装中で7月までやってなかった。浜虎という場所で、僕はこだわりが強いから、浜虎がないなら他には何も食べたくない、要らないなとか思っていたけれど、それではいけないと思って他のラーメン屋に行った。わざと道を迷ったりしていた。

 

どうにかして家に帰った。具合は良くなった。東京では雨が降って、それが僕が寝ている間に横浜まで広がって、この辺でも雨が降っていたらしい。でもその時間の僕は頭痛で呻いて寝ていた。それからまた朝になって、起きて、何かしていたら今になった。公園に行くまでの道に紫陽花が咲いていた。今年は、鎌倉に行けるかな。紫陽花を寺で見たい。風鈴の音が聞きたい。隅田川で花火が見たい。水族館でクラゲが見たい。金魚の展示だって見たい。なんだか観覧車に乗りたい。大きな夜の東京湾が見たい。パフェを食べてみたい。本を読みながら釣りをしたい。海で泳ぎたい。投稿してない日記に気付いたので、投稿した。

 

閲覧数が減ってきたのでやる気がなくなってきた気がする。もう、君は、僕のブログを読んでない。

 

https://m.youtube.com/watch?v=Ghjdm0owJBg

2017年5月30日 幻想の遺伝子

薄々分かってると思うけれど、僕の日記のタイトルは日記の一番最後の文章から取っていることが多い。今日は前半は音楽の話、後半で幻想の遺伝子の話をする。

 

今日は9時くらいに起きた。7時43分には起きれなかった。それから二度寝して、14時半になってからやっと起き上がった。


その間に夢を見た。変な夢だった。俺が女の子になってレイプされそうになって抵抗して男を殺す夢だった。なんでこんな夢を見たのか全く分からない。レイプされそうになったのが俺ではなく、レイプしようとした男こそが俺だったのかもしれないなと少し思った。

 

People In The Boxの『聖者たち』という曲が昔好きだったことをふと思い出した。寝られない夜にこれを聞くと、いつもすぐに寝られた。この曲が出てから2年8ヶ月も立ってることに驚いた。時間はこんなに変わってしまった。

 

『飛行船』『聖者たち』
https://m.youtube.com/watch?v=UCDg5gLGMAY

(このMVの後半の曲)

 

歌詞は詩的すぎて曖昧で難解に聞こえるが僕は好きだ。声や曲調も、マスロックな構成も好き。

 

どうしてこの曲は”聖者たち”なのだろうか、それが3年経った今も分からない。聖者たちはなぜ終わりを告げて欲しいのか。それは今は分かる気がする。

 

『ニムロッド』
https://m.youtube.com/watch?v=LME2bCe3_J8

 

『旧市街』
https://m.youtube.com/watch?v=S0TOzCdI2OQ

 

マスロックと言えば、the cabsなんかが僕は好きだ。もう解散してしまったバンドだけれど、優しい声と、繊細かつ空想的な歌詞と、なにより曲が本当にかっこいい。

 

『Anschluss』
https://m.youtube.com/watch?v=5BSJ4NIotp8

 

『二月の兵隊』
https://m.youtube.com/watch?v=6qsXxKawUos

 

cabsで一番好きな曲は『花のように』だけれど、ここに載せられる音源がないのが残念だ。既に解散してるバンドなのでSound Cloudとかなら海外から違法アップロードされてると思うけど。

 

歌詞が本当にいいのでツイッターでthe cabsの歌詞botをフォローするなり、ググってみるなりしてくれたら嬉しい。ちなみに解散はドラムが失踪したことが原因で、メンバーたちの現在は ボーカルはKEYTALKに、ドラムも一人で活動を再開していて、ベースも違うバンドでやっている。cabsで歌詞を書いていたのはドラムで、今はÖsterreichという名前で曲を出している。Österreichの歌詞も良いので、聞いて見て欲しい。Sound Cloudでたくさんの曲が聴ける。

 

それとSound Cloudっていうのは音源投稿専用のサイトで、YouTubeから映像を抜いたみたいなもの。休日に有名じゃないアーティストの色んな曲を聴き漁るのが趣味だったが、最近は全くしてないな。

 

他にも最近好きになったバンドに、”忘れらんねえよ”とかがあるけれど、この辺で話を切り上げる。

 

 

 

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Peopleの『聖者たち』という曲には、「噛み合う蛇」という歌詞の一節がある。噛み合う蛇とは何だろう。

ouroborosは自分の尻尾を噛む大蛇で、無限の象徴として捉えられてきたが、それは、噛み”合う”蛇ではない。少なくとも1匹より多くの蛇がいて、互いを噛み合っている。喧嘩でもしているのだろうか。なぜ喧嘩をするのだろうか。ちなみに毒ヘビは自分の毒に対する抗体があるので、毒ヘビ同士で噛み合っても毒では死なないらしい。

 

「噛み合う蛇」とは「絡み合う蛇」のことを言ってるのではないかと思った。

蛇は交尾をするときに情熱的に絡み合う。そして数日間、ずっと交尾をしているらしい。こんなに強く絡み合っていると、傍から見たら、締め殺し合ってるようにしか見えないのだけれど、彼らにとっては情熱的なセックスだ。そんなことって人間にもあるよなと思った。

 

外から見たら憎み合ってるようにしか見えないけど、それが本人たちにとっての愛情表現みたいな。そんな捻くれた生き方は僕はしたくない。

 

噛み合うような交尾もある。鮫とか猫とか。人間もセックスしてるときに甘噛みをする気がする。


ネコ科の動物がオスがメスの首を噛み付くのは有名だ。あれは、オスのペニスに逆トゲがあって、挿入時は問題ないけれど抜くときにメスの膣内が引っ掻かれて痛くなるので、それでメスが暴れるのをオスは首を噛んで抑えるらしい。膣内に引っかき傷を作るのは、その刺激によってメスが排卵する仕組みを持ってるからで、そうする理由もきちんとあってなんかこれ以上書くのは面倒だから書かないんだけど(知らないのではない)。痛そうだなあと思った。その点、人間のセックスは基本的に気持ちいいから良い。人間は一年間発情期の珍しい生き物で、そして何度もセックスをする習性を持つ。ただ年間発情期のために毎月の月経があるのは痛いよなあと思う。

 

蛇の話に戻る。蛇の精子は1度の射精でメスの体に1〜2年も生き残るらしい。人間からすると怖い話に聞こえる。精子を体内に保管する生き物はわりと普通だ。ゴキブリとか。テレゴニーというのは、こういう性質を見て昔の人が勘違いしたんじゃないかなと思うこともある。

 

テレゴニー(telegony)というのは、先夫遺伝とも言われるもので、かいつまんでいうと、メスには以前交尾したオスの遺伝子を保存する機能があって、今のオスとの子供の間に前のオスの遺伝子が影響して生まれてくるという説だ。ハエなど一部の動物に実際にテレゴニーを持つ生物がいることは既に明らかになっている。


19世紀後半までは人間にもテレゴニーがあるという迷信が広くあったが、今では証拠がなくどちらかと言えば否定されている。しかし、まだ有力ではないがそれを肯定する説もそれなりにあるらしい。

 

Wikipediaによると、
精子による女性生殖器内の体細胞への侵入、妊娠による胎児の細胞を経由したDNAの結合、精子から放出されたDNAの母体体細胞への取り込み、母体血中に存在する胎児のDNAによる影響、体細胞への外来性DNAの編入、精子や胎児に含まれるRNAによるエピジェネティックスな非メンデル遺伝”などがそれを支持する根拠らしいが、どのくらい妥当なのかは僕には分からない。ソーカル事件という話もある。それっぽい単語が並べられているからって、鵜呑みにしてはいけない。

 

もし人間がテレゴニーを持つという話が本当なら、何だか遣る瀬無いなと思えてくる。セックスなんて、きっとそんなに慎重に選ばれて行うものじゃない。でも子供が昔の夫に似ていたからってなんなんだ?僕は自分の子供が欲しいなんて全く思ってない。それなのに、なぜ嫌な気持ちになるのか分からない。俺は生殖したいなんて気持ちを持ったことは全くないはずなのに、胸が苦しくなるし、脳の後ろ側を舐められているような嫌な感触がやってくる。テレゴニーが事実だという話自体が嫌だと思えるけれど、僕がその話を聞いて嫌だと思う程度の生殖欲求が僕にあることを知らされるのはもっと嫌だ。個人の幸福を求めるとき、生殖はあまり効率が良くないということは現代人なら誰でも知ってるだろう。
セックスは嫌いじゃないが生殖に興味はない。なのに、脳はそうじゃないのかな。俺が思ってることと、体が本能的に湧き起こす感情が不一致を起こしていると、すごく嫌になる。本当に俺の意思ってなんなんだ、そんなに貧弱なのかと思ってしまう。
テレゴニーの話はこれ以上したくない。僕は人間にはテレゴニーなんてないと思う。嘘だろう。膣内という殺菌能力の高い環境で、精子が無駄に生きてるはずがない。人間の生殖形態は他の動物と違うところも多い。というか生殖形態なんて千差万別だ。

きっと人間には今の恋人が他の誰かとセックスしていた過去を認めたくない気持ちが根付いているから、テレゴニーなんて幻想を生み出してしまうのだと思う。しかし、テレゴニーを本能的に理解してるから、恋人の過去のセックスを認めたくなくなるのだと言う人もいる。そこまで言われると分からなくなる。

テレゴニーと、テレゴニーの否定と、どちらが幻想なのか、俺は分からない。

2017年5月29日 教えない

oidakiくんにブログを書けと言われてるので書く。

 

区役所で所々手続きをしてきた。保険証が出来たから、これでバイト探しが楽になる。区役所にマッシュみたいな髪型にマスクのお兄さんがいて、「その髪で仕事いいの!?」とちょっと希望が湧いた。区役所とか文科省とかで働いてるお姉さんって基本的にみんなかわいいの何でだろうね。働く女性の色気がある。でも40代あたりからみんな疲れた顔を化粧で誤魔化しているような人しかいなくなる。資本主義は、厳しい。競争社会は、厳しい。

 

この間、母チーターが鹿のような生き物を襲う映像をテレビで見た。チーターは鹿に逆襲されて鋭利な角で腹を引き裂かれた。腹から大腸が溢れているチーターは、困惑と苦痛の表情で、それでも子たちのために餌をとろうと足を引きずっていた。子供のチーターたちはまだ子猫のように小さくて、母を見て泣き喚くだけだった。子供たちは幼い。一人で狩りをすることは当然できない。美しい母チーターは失血で死に、可愛らしい子供たちは餓死か天敵からの捕食で死ぬだろう。そんな映像だった。あれが怖くて、なぜだか忘れられない。僕は、そんな風には、なりたくない。

 

最近ツイッターをやめたいと思うことが多くなった。

ツイッターには見たくないものが多すぎる。自分のツイートとか、人のツイートとか。そうやって見たくない現実に会うたびに僕は逃げる。「変わりたい」とか言い訳をして、ツイッターから逃げる。何事からもすぐに逃げる。都合が良くなったら、帰ってみたりする。本当に虫がいい人間だ。今日はブログに逃げてきた。

 

論理学の勉強は少しだけ順調だ。最後までやり遂げたい。僕は最後までやり遂げたことが少ないから。

 

六畳間に閉じ込められているぼくがみんなのために出来ることはほとんどない。多分、平日なんだから早く寝ろと注意喚起して、みんなの睡眠時間を伸ばすとか、それが僕ができる最大のことだろう。人が疲れている顔をしているのは、あまり見ていたくない。

 

でも本当は、寝られない僕と一緒に、みんなが起きていればいいのにって思ってる。僕が一人で夜を過ごせるほど強かったことは一度もない。そして二人で過ごせること強かったこともそんなにない。

 

でも最近はよく寝れてる気がする。昨日は朝7時39分に、今日は朝7時41分に起きた。明日は43分に起きるだろう。

起きて、目やにを落としてLINEの通知を見て、ツイッターを開いて、布団の中でもぞもぞしてるうちに1時間くらい普通に経っていてどうにか体を起こす、そんな日々。

 

僕は疲れている人を見るのを人よりも嫌がる気がする。

僕の出身の小学校はこの時世には珍しく、1クラスあたりの生徒数が多かった。だから担任の先生はみんな疲れていた。土地柄として、複雑家庭の子や、モンスターペアレントなんかも多かったのだろう。

それから、僕が幼かった頃は森川家の大人たち(父、母、祖母、叔父、叔母)はまとまっていて、いつも喧嘩をしていた。彼らが疲れた顔をしているときは、決まって僕たち兄妹に怒号が飛んだ気がする。父が原因で彼らの軋轢は明確に深まり、今はみんな別居している。僕にとってはそちらの方が都合がいいし、彼らにとってもそうだろう。

 

今言った2つの経験が、なんとなく僕が疲れた人を気にする性格になった理由だと、僕は思っている。こういう自分語りはつまらない。やめる。

 

最近はよく運動をしている。運動をしたい気分だから。健康になりたいとかってのは理由のうち3割くらいのもので、残り7割はただ運動してれば気分が紛れるからだろう。始めた頃よりは懸垂ができるようになった。夜の公園で懸垂をしていたら、公園に溜まっていた高校生のうち何人かがやってきて、僕はベンチに避難して彼らに懸垂台を譲渡し、彼らが僕より懸垂できてたら嫌だな、なんて思いながらチラ見していたが、みんな1〜3回でへばっていて安心した。かわいかった。そしてそんなことを気にする僕も、きっとかわいい。

 

公園から帰ってきてタンクトップ姿でリビングに行くと、父が招いた客人がいた。彼もタンクトップ姿で、よく焼けた肌に筋骨隆々とした肉つきを見せていた。そんな中で妹がぼくに「腕太くなったね。筋トレの成果じゃない?」なんて言ってくるものだから、本当にこいつはよくそういうことを言うなと思った。父の友人はどれ見せてごらんと言いながらも、僕より大きな自分の筋肉に力を入れて見せて、僕はすぐさま退避した。

 

なんだか行きたい場所がたくさんある気がする。この散らかった部屋は見飽きたのかもしれない。ずっと部屋にいたから、一人で歩き出すのも良いかもしれない。鎌倉で紫陽花が見たい。お寺や神社は静かで好きだ。人がいない平日がいい。平日は人がいても老人か外国人観光客ばかりだから、居心地がいい。平日に遊び放題なのが僕の強みだ。大学生になったあとの人生はきっと今ほど自由じゃないから、今のうちに平日を満喫しよう。鎌倉は近いし、好きな場所が多いからいい。佐助稲荷神社とか好きなんだよな。紫陽花はどんな日に見ようかな。雨が降る日は沢山歩けないけど、きっと感傷的で素敵な1日になるだろう。晴れの日は沢山歩けるけど、人が多くなるだろう。あまり関係がないけど観覧車に乗りたいんだすごく。観覧車を乗る夢を見て、それからずっと観覧車に乗りたい。行きたい水族館もできた。友達と釣りに行く約束もできた。長崎から遊びに来る友達もできた。冬になったら銀山温泉に友達と行く約束もできた。楽しみだな。

 

夏なんて全然怖くない。僕が寝ている間にみんなが勉強しているのだとしても、怖くない。花火が綺麗でも、怖くない。あの子と僕の花火の思い出が、あの子と僕の知らない人の思い出に塗り変わってても怖くない。だってそんな思い出はないから。蝉が鳴いてても、怖くない。部屋が暑くても、怖くない。汗が蚊を呼んでも、怖くない。肌が焼けるのも、怖くない。部屋から一歩も出なくても、怖くない。エアコンがない外なんて、全然怖くない。人と人とがどこかで勝手に幸せに笑顔になってても、全然怖くない。全然怖くないよ。

 

ああ、でもミュシャ展はたぶん行けないだろうな。6月5日で終わるから、都合が合わない。スラブ叙事詩が見たかった。本当に残念だ。死ぬまで残念と言い続けるだろう。

 

僕は潔くない。基本的に後悔を引き続ける。うじうじしてる奴と言うのが一番的確な表現だろう。臆病者とも言っていい。前を見る気がない。思い出だけ反芻してればそれでいいと思っている。それでも、昔のことをいつか忘れられてしまうのかな。本当のことを言えば、後悔だったとしても何かに向けていた気持ちを忘れたくない。くだらない、些細なことだったりするのにね。ぼくらの執着なんてまだ青臭いものなのかもしれないけど、きっと年齢なんて関係ないはずだ。ロミオとジュリエットは17歳と14歳で、当時は等身大の大人の恋愛だった。現代の仕組みが僕らを子供だと見做して行動を制限しているだけで、本当は大人と変わりないものなんて沢山あるんじゃないかと思う。でも俺は本当は大人になんてちっともなりたくない。子供でもいたくない。何にもなりたくない。

大人になったら、こんなこと脳の容量を使うに値しないなとか思って色んなことを忘れて行くのかもしれないと思うと、それが大人なら子供の僕は大人になりたくないと思う。

 

ツイッターをやめた時間で本でも読みたいな。読みかけの本がたくさんある。どれも面白い本だ。俺が選んだ本なのだから、俺にとって面白くないはずがない。

でも何を読むかは、君には教えない。

2017年5月27日 加速する週末

面倒くさい。勉強してない。昨日はunique readability theoremやった。やばくなってきた。死ぬしかない……

2017年5月12日 金閣寺は燃えていた

ここ最近は数学も勉強もインターネットも全てに飽き飽きとしていたので,ひとりでずっと本を読んでいた.ひとりなのはいつもそうだから取り立てて言う必要もないか.何をやってても退屈だと思うときは布団の中に閉じこもるのではなく,集中力が切れるまで他のことすべてを切り捨てて本を読む.ずっと読んでいるとやがて他の物事に対する執着心が再燃してくる.数学面倒だなとか思いながら嫌々と机に向き合うのではなく,逆に3日間くらい数学を断つと「頭の中に数学が足りてない」と中毒症状を起こしてモチベーションが再沸するのだ.俺はこの方法で,かれこれ2年は数学に触ってない.次に数学のモチベーションが湧くのは15年後くらいだろう.

 

 

ということで俺は犯罪心理の本を読んでいた.他にもジェンダー論や,貧困のAV女優の独白『名前のない女たち』などを読んでいた.犯罪心理の本には放火犯の章で金閣寺を燃やした男の話があった.金閣寺が一度焼失したことは小学校の歴史の授業で先生が口ずさんでいたから知っていたのだが,それが事故や戦争によるものではなく,故意的に人の手によって起こされたものだと知って非常に強い興味が湧いた.この地球上の歴史の中に金閣寺が燃えていた瞬間があると思うと,何事も受け入れられるような安心感が生まれる.1950年7月2日未明,金閣寺は燃えていたという事実は二度と変えられずにこの世に存在し続ける.金閣寺炎上事件はaprès-guerre犯罪の1つと言われている.かっこいいフランス語が使いたかっただけなのでアプレゲール犯罪は何たるかを説明する気は無い.犯人の林養賢が金閣寺を焼いた動機についてはWikipediaの記事や三島由紀の『金閣寺』などを参考にすると良い.三島由紀夫の『金閣寺』が金閣寺炎上事件を題材にしているということを俺は今まで知らなかった.

 

とにかく金閣寺を燃やすという気持ちに俺は強く惹かれた.言われてみれば俺は小学生の頃も,修学旅行で金閣寺を実際に見たときも「燃やしてみたい」と思っていたかもしれない.金閣寺には言葉に尽くしがたいものがある.虚飾にしか見えない華やかさや,それへの賞賛,仏教的な矛盾などが渦巻いているように見えて仕方がない.そして,それを燃やして昇華して自分を変えたいという気持ちは俺の中にも,おそらく金閣寺を見る全ての人間の中にあるのではないかと思う.銀閣寺や清水寺,八坂神社を見ても燃したいとは思わないが,金閣寺のみに燃やしたいと言えるような何かが確実に宿っている気がしてならない.

 

それから心理学の本を読んでいて,自分は数学よりも精神医学系の話題の方が興味があるのかもなという気がしてきた.物事を常に分析的に把握したいという気持ちが根強くあって,その中には”人間の心”という曖昧すぎるものを把握したい気持ちも含まれている.もちろん他人の気持ちなんてどこまでやっても分からないし,そもそも自分の本当の気持ちを知ることですら難しい.けれど僕たちの生活に僕たちの気持ちが密接に関わっているのは事実であり,生活の中から切り離しようのない”気持ち”というものを知ろうとするのは自然な考えだと思う.もっと言えばそれを,ぼくらの精神を定量的に,形式的に,学術的に記述して分析して対応することが出来るならそれは非常に有意義な試みになるのではないかと思う.もちろん気持ちなんて外側からではどうやっても,自分自身ですら知り尽くせないものを説明しようとするのは非常に難しい作業だと思うけれど,だからこそやっていけたら良いのではないかなと思う.

 

 

これから自分が精神医学系に進むのか,数学系に進むのかはまだ分からない.そこで東大の進振りが役に立つのかな.進振りの話をするといつも思うのだが日本の大学は全て進振り制度を導入するべきだ.高校の勉強で自分の専門とか分かるわけないじゃん.こういうと進振りで苦しむひとたちもたくさんいると反論されるが,物事を選択するのに葛藤や後悔といった苦しみが存在し得ない訳がない.ましてや自分の将来の専攻を決めるのだから,丁寧な判断や相応の努力が積まれるのは当然だと思う.高校卒業してすぐに専攻を決めるというのは,ごく一部の本当に適職を見つけたひと以外の多くにとって慎重な判断を捨てているだけだと思う.
後悔しない選択肢,と言い続けている人がいるが,後悔しない選択肢というのは存在しないことも全然ありえる.進振りの話だけでなく,僕たちの生活には多くの場面で,「どれを選んでも後悔するが,どちらか1つは選ばなければならない」という回避-回避型の葛藤がある.それを思って「仕方ない」ということも,仕方ない行為だと個人的に思う.赦されるとか忘れるとかそういう働きで物事を終わらせようとするのは間違っていると思う.過去に間違いをした人間は一生自分を責め続けなければならない.僕たちは一生自分を責め続ける勇気がないから「赦される」とかそういう言葉で終わらせようとしているだけだ.赦す行為は他人だけが持つ権利であって,赦されたと言って後悔をやめる権利は本当は誰にも与えられてない.僕たちは後悔を放棄しているだけで,本当は自分の過去の行いに毎晩悔やみ続けなければならない.とか今まで考えていたのだが,数学者Hardyは「自分よりも適切な者がいるのではないかと常に悩み不安になる人間は無能だ」と言っているらしくて俺の心に刺さった.最初は何故そう思うのだろう、と考えたけれど当たり前の話だった。人々が誰かに何かを任せたときに,その任された人が「本当は自分よりも適切な者がいるのではないか」と悩んでいるのは,人々の判断に対する懐疑だ.そもそも,任された人がそのような態度であったら嫌だと普通は思うだろう.僕はそんなことも20年近く生きてて気付いてなかったなあとか思った.とにかく自分には「本当の自分は優れてないが他人が何を履き違えて僕を評価している.あるいは僕が人々を上手く騙したから人々から今の賞賛を受けている」と思う傾向が強い.これは,自分について本当のことを言ってるだけだと今も思うけれど,強すぎる自己否定や謙遜表現だと他人から見られたときには他人を傷つける言葉になるので直さなければならない.そのような考えに基づく行いも人を傷つける.賞賛を受けても嬉しいとは思えないけれど,肯定されたら嬉しいことを最近知った.
例えばテストで100点とってそれを褒められても,僕は「100点取るに至る準備や環境があったから,100点が取れただけで褒められるようなことはしていない」と思うので,僕には本当は賞賛を受け取る機能がないのでは?と悩んでいたところ,「昔から変わらない特徴を褒められたときはどう感じますか?」とフォロワーの方から言われて,そういうときは確かに嬉しいなと思った.
つまり僕は行いへの評価ではなく,今までもこれからも変わらないような自分の性質を評価されるような,端的に言えば全肯定をされて初めて喜べるのだなと気付いた.ああなんか面倒くさい性格に育ったなと思った.満足感が常にない.それは自分が本当に欲しいと思うものを持ってないからなのか,あるいは単純に常に足りてないからなのか,それとも満足する機能そのものが不全しているのか分からない.食欲ですら胃が痛くなるほど食べてもやってくるので面倒くさい.なぜこんなに食欲が出てきたのかよく分からない.食べても体重が微塵も変化しないのは幸いなことなのかな.物欲と性欲と食欲のうち1つが欠けると他2つが強くなるみたいな言説があってそれに当てはまるのかもしれないが,それで考えると3つが欠けているから3つとも強くなっているはずだ.ていうかこの言説の根拠を僕は知らない.マズロー欲求階層説とか?よく分からないのであまり信じてない.満足感や充実感がない.生きていくための充実感を手に入れることを考えなければならない.でも本当はこれからどうすればいいのかなと論理的に考えようとすると,さっさと自殺したほうがいいという結論だけが出てくる.そして人間はなるべく早く自殺したほうがいいという考えは間違いではないと思っている.最も雑な言い方をすれば,生存というエントロピーの増大則に逆らい続ける行いは楽じゃないからだと説明できる.


なんにせよ今は勉強しなければならないのかな.数学の定式化や抽象化、一般化を用いて物事を統一的に把握していく議論の方法は個人的に好むところがある.一方で自然界の現象に面白いとは思えても研究したいと思えるほどの興味はないので,物理学や化学にはあまり興味はない.生物にも興味があるけれどそれも趣味の範囲の話だろう.だから,数学か精神医学とかやっていくために,今は浪人生から脱することを目指す.でもさ,研究して何になるの?楽しいから,お金が欲しいから?楽しければなんになる?お金があって何になる?遊んでいれば何になる?音楽を聴いて何になる?踊っていたら何になる?運動したら何になる?セックスしたら何になる?愛し合ったら何になる?承認さられたら何になる?有名になったら何になる?ささやかな幸せで何になる?新居を構えて何になる?温泉に行けたら何になる?綺麗な景色を見て何になる?仕事に充実があったら何になる?趣味が楽しくて何になる?とかすぐに思ってしまうのは,やはり生きる上で快楽の報酬系に不全があるからなのだろうか.あるいは社会性不安が強かったり回避性が強いのか.よく分からない.人間は楽しさという麻薬を常に獲得し続けなければいけない.ただ,やっていかなければならない.嫌なことから逃げるために.

勉強,バイト,介護,仕事,お金,奨学金,人間関係,恋愛,健康,期待,生存,過去の行い,これからの全てとか人間には抱えるべきものが多すぎる.でも野生動物だったら僕たちみたいな怠け者は親離れして1日で餌を見つけられずに死ぬだろう.兄弟間の餌取り競争ですら負けるかもしれない.メンフクロウの雛兄はお腹が空いてるやつに餌を譲る習性があるらしいからメンフクロウの子供になればよかったのかもしれない.人間は面倒だ.感情があるから面倒だ.でも人間以外はもっと面倒だ.そもそも生存そのものが自然に反していて非常に面倒だ.だからこそ,たまには心の中で金閣寺を燃やしてみるのも良いと思う.ツイッターとか自分とか現実には見たくないものが多すぎる.ああもう全部嫌だ。ここにしがみついてる価値はない。そもそも前から気に食わなかった。イライラするのは割に合わない。って秋田ひろむが歌ってた。ミラクルニキと燃えている金閣寺の心象,それをポケットに入れて生きていこう.数学もツイッターも君たちのことも僕は忘れた.

2017年5月10日 それでも僕は

現実が降り積もってやってきたので少し怖かった。自分が怖い。本当に自分は何を成そうとしているのか分からなくて怖い。他人も怖い。他人も分からない。でもそれ以上に自分が怖い。自分がどうやっていつ他人を傷つけるのかよく分からないのが怖い。まあ怖いこともあるよな。昨日見たホラー映画とか怖かったし。あと蜂とか結構こわい。他にもमर्डरとかटोकीओ यूनिवर्सिटीとか。ちなみにこの日記は5月5日 23時20分に散歩でぶらついた海沿いのベンチで脚を休めながら書いている。少し歩き疲れた。休んでいる。歩くのは嫌いじゃない。街を眺めていればいくらでも発見はある。はてブロに予約投稿なる機能があるのを知ったので使ってみた。予約投稿の時間は何となくで決めた。いや、それは嘘だな。横浜の街は俺に似合わないくらい美しい。海は皆は汚れてダメだというが俺からすれば美しい。なんだか海の中は気持ちよさそうに見える。溶けたくなる。まあ布団の方が気持ちいいし、誰かの隣の方が気持ちいいか。はやく布団か誰かの隣に行かないとな。海を見ている時間はない。歩くのも下手くそだからそこへ行くまでまだ時間がかかるだろうか。戻るべき場所はないならどこへでも行けるというが、そもそも俺にはどこかへ行く気は無い。これからどこへ行くのかは知らない。画面越しですら友達はいない。スタバのメニューも知らないし、ディズニーランドのファストパスも、インスタグラムに載せたくなるようなお洒落なお店も知らない。何を知ってたっけ、数学も知らないし知ってることはない気がしてきた。まあ何も知らなくても20年近く生きてこれたのだから、まだ当分は何も知らなくていいだろう。普段日記を書いていて、どんな陰欝な文章であっても、最後に「やっていくぜ」的な気持ちを表明して終わらせないと、読者は不満だろうと思っているので、いつも必ず「やっていくぜ」と言ってるのだが、本当のことを言えばおれにやっていく気持ちはちっともない。自殺したひとの話を聞く度におれもそっちに行けたらなと思う。生きていてとにかく面倒くさいなとしか思わない。つらいとか悲しいとかではなくて、どこまでも面倒くさいなとしか思わない気がして、それもまた嫌だから死ねれば幸いだ。窓の外にいる小鳥を見つけた瞬間にふっと消えるような死に方をしたい。あるいは愛する人に手を握られて若く死ぬとか。いやそれは死後に悲しみを残すのが嫌かな。空からギロチンが降ってきてそれが頚椎を真っ二つにするような怪死を遂げられれば最高だ。それで良さそうだ。しかし、どうやらそれができないらしいから俺は生かされている。交際とか、すれば何か変わるかなと思ったこともあった。しているときは焦りと、自分で相応しいのかという懐疑と、それに対して「もちろん自分は相応しくない。ただ自分を満たすために他人を騙して利用して隣にいるんだ」という答えが生まれ続け、それらを隠そうとしてぐるぐる回って寡黙になり、でも目の前にあるものを求め続けるだけで、またあとから後悔したりするようなことばかりだった。他にも、俺が相手を好きでもないのに交際関係を持ったことが言葉や態度に現れて深く相手を傷つけるようなこともあった。とても反省しているし、交際とかはしないほうがいいなと思う。交際相手を除いても、自分が自分以外の人間と対等であると感じたこと一度もない。71億人か1億3千人のランキングで最下位とまでは言えないが、普段生きてて自分より下の人間だな、と思える人間を見たことは本当にない。自己評価の低さ、極端な謙遜は相手を傷つけ得るとも言うし、実際にツイッターでは有識者が謙遜して無知を装った上で鋭い指摘をするような嫌がらせをよく見るのだが、それでも俺は本当に自分が優れてると思ったことはない。こういうことを言うのは悪いと知ってるのでなるべく言わないようにしてるが、閲覧数50のブログなら問題ないだろう。たまには正直なことも言ったほうが良い。おれは自己に対して否定的というわけではなく、客観的な評価をした上で自分にはとにかく何も無いと思う。これを変えるためには客観的な評価を捨てる以外の方法はない気がする。例え1億円手にいれても、俺に1億円が足されただけで、空虚だなと思うだろう。いやそれはないか?1億円を持ってないのだから、そこまで言及するのは早計だ。1億円を手に入れて、実際に検証するまでは分からない。とにかくそうやって交際に失敗するようなことが、本当のことを言えば3〜4回くらいはあって、比較的まともな終わり方が出来たのが最後の1回くらいで(あれがまともだと言えるのか分からない)、他3回は本当に俺のダメさが全面に出ていたので、なんかこういうの向いてないなと思った。でも”向いてない”という、どこまでも妥当な評価が出ている上で、愛するとか愛されるとかそういうものへの欲求が出てくるのは本当にどうしようもない。理性の負けと言える。嫉妬とか執着とか、自分で判断してやってきたのに、今更なことを思い出したり、とにかく感情は面倒くさい。それで、また何かを獲得すれば最初に戻って、「自分は相応しくない」と思い、十分な関わり方をしない。そういう態度だやってれば早かれ遅かれ破綻は起こる。自分は常に破綻を見越していてダメだ。破綻を見越したときに、何としてでも続けていこうといった方向に努力を向けるのではなく、まだ立ち直せるかもしれないところで、破綻後の事後処理に努力を振ろうとする。とにかく今言った通り、僕はやっていく能力が本当に欠損してると言える。こういうことを言うと病んでるとか周りに言われたりすることがあるが、平常運転で常日頃こうやって思って生きてきたので、なんか違うなとだけ思う。君が思ってる「元気な僕」のときも、本当はギロチンが降って死ねないかなと考えてる。嬉しい、楽しいという感情は全然あるけれど「美味いものを食べたいなあ」と思うくらい自然に「早く楽で後腐れのない死に方を得たいな」と思う。修学旅行中も遊園地でも水族館でもセックスしてる時でもラーメン食ってるときもゲームしてるときもツイッターやったりアニメ見てるときもそれは変わらない。もちろん死ぬための活動をしたことはほとんどない。僕にとっての理想の死が、死ぬための活動をした時点でそうでなくなるようなものだから、だと思う。こういう話をすると、やはり心配されるだろうし、心配かけたり同情を引いたりすることは全く求めてない(むしろそういうのは面倒)だと思うので本当は何も言わなければいいのだが、まあ、たまには言うこともあって良いんじゃないかな、と思って言った。僕からすれば「幸せになる」「夢を叶える」みたいな漠然とした意識をボロボロになるまで引きずり続けられてる人間のほうがよっぽど意味がわからない。夢も幸せもなくても、生活があれば良いというのも正直分からない。人生でやることは特にないなと気がついたら、さっさと楽に死ぬことを考えるべきだ。でも楽に死ぬ手段はその辺には全く落ちてないので、まあなんか難しいよな。それに未練とかもあるし。それなりに大きな幸せが手に入れば、やる気も出てくるのか?とよく思うが、それなりに大きな幸せを手に入れる能力が俺にはないこと、そしてそもそも”それなりに大きな幸せ”はそんなに無さそうということ、その2つは既に前述している。こういう意識が生まれたのがいつだかはよく覚えてないが、物心ついた頃から死ぬことを意識して生きていた節はあるので、かなり根本的な思考だと思う。覚えてない記憶だが、おれは幼稚園児の頃に、横断歩道を渡る前の左右の確認をかなり丁寧に行う子供だったらしくて、その理由を「死ぬかもしれないから」と答えたらしい。小学1年生の頃には、常に自分が死ぬ可能性を考えながら生きていた自覚があるし、とにかく俺は死ぬことや生きることに機敏で、やがて機敏な意識は苦しみを見越すことをし過ぎるようになり、最後には楽な死を求めるようになったのだと思う。この”機敏な意識”は、俺が覚えてないくらい幼い頃からあったことが親たちの話から伺えるので、先天性のものかもしれないし、気持ちの変えようで直るのかは分からない。とりあえず20年近くの期間こういう人間性を持ってたことは断言できる。なぜこんな意識を持って生きてるのか、まではある程度考えているけどここに書くと本当に長くなる。それで、その結果が現実での危機に対しする強い回避感情や、その回避感がもたらす他人への関わりの薄さ、損切りの早さなどにあるのだと思う。この回避感情は僕の中に厳密なルールを作っている。それは常にリスクの期待値が最も少ない行動を選ぶようにするルールで、メリットの期待値が高いものを選ぼうとする野心が僕にはない。一方で本当は恐れることや疑うことをやめたい気持ちがあって、つまり愛情を受けるようなことに対する欲求で、それは本能的な欲求で、つまりメリットの期待値が高い行動に踏み込もうとする欲求だ。しかし僕の意識に根強く残る回避感情、つまりリスクの期待値が高いものを踏もうとしない意識もかなり強くて、そいつらが激しい戦いを心の中でやる。それもまた本当に面倒くさい。生きてる上で一番面倒くさいのは感情だと思う。面倒です。とにかく面倒くさい。機械のようにただ書を読んで言葉が出てくるようになれば良い。あとは生活のための最低限の行動を無心でやっていられるようになりたい。そうでないのは何故だ。地球が恨めしい。海に対してなぜ俺を生んだと殴りたい。本当に海に沈んで海と喧嘩してやってもいいかもなとか思い始めたので、そろそろ帰ろう。俺は魚ではないし、非生物と喧嘩するような不毛なことをする時間はない。魚になりたいと思うことはある。水槽のなかで飼われている肉食古代魚ポリプテルス。でもこの魚を知るほど、俺みたいだから見ていて気持ち悪いなと思う。やっぱり魚になんてなりたくないな。何が悲しくて水を泳いでなきゃ行けない。他にやるべきことがあるだろう。さっきまで海に溶けたいとか言ってたのに海を嫌いだというし、やはり俺は手のひら返しが早い。俺はそういう人間だ。手のひらに乗せたものをくるっと翻して落とす。たぶん手のひらに物が乗ってるのが嫌いなんだろう。不気味なポエムをつらつらと書いたがこれら全てに意味はない。おれは人生で意味のあることを見つけたことはないので、意味がなくて当然だと思われる。意味のある時間を過ごしたこともない。だから俺から出てくる言葉に意味があるものがあるわけがない。毒を読ませるのだからこんなもんでいいだろう。俺は、性欲や自尊心や保身や退屈を埋めるために、白々しい言葉をこれからも他人に言い続けるだろう。喜んだり悲しんだり色々あるかもしれない。そういうのって大変だな、面倒だな、とだけ思う。それでも僕は、それでも僕は、やっていかなければならない。空からギロチンが降ってくるまで。いつか分からない。なるべく早いほうがいい。それまでは、やってくぜ。それでも僕は、やってくぜ。終わり。

 

追記:スマホはマジで海に落ちた