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読む毒

8歳の女児です。東京大学理科1類を目指して浪人をすることになりました。このブログを読むとあなたの貴重な時間が消えます。

2017年5月12日 金閣寺は燃えていた

ここ最近は数学も勉強もインターネットも全てに飽き飽きとしていたので,ひとりでずっと本を読んでいた.ひとりなのはいつもそうだから取り立てて言う必要もないか.何をやってても退屈だと思うときは布団の中に閉じこもるのではなく,集中力が切れるまで他のことすべてを切り捨てて本を読む.ずっと読んでいるとやがて他の物事に対する執着心が再燃してくる.数学面倒だなとか思いながら嫌々と机に向き合うのではなく,逆に3日間くらい数学を断つと「頭の中に数学が足りてない」と中毒症状を起こしてモチベーションが再沸するのだ.俺はこの方法で,かれこれ2年は数学に触ってない.次に数学のモチベーションが湧くのは15年後くらいだろう.

 

 

ということで俺は犯罪心理の本を読んでいた.他にもジェンダー論や,貧困のAV女優の独白『名前のない女たち』などを読んでいた.犯罪心理の本には放火犯の章で金閣寺を燃やした男の話があった.金閣寺が一度焼失したことは小学校の歴史の授業で先生が口ずさんでいたから知っていたのだが,それが事故や戦争によるものではなく,故意的に人の手によって起こされたものだと知って非常に強い興味が湧いた.この地球上の歴史の中に金閣寺が燃えていた瞬間があると思うと,何事も受け入れられるような安心感が生まれる.1950年7月2日未明,金閣寺は燃えていたという事実は二度と変えられずにこの世に存在し続ける.金閣寺炎上事件はaprès-guerre犯罪の1つと言われている.かっこいいフランス語が使いたかっただけなのでアプレゲール犯罪は何たるかを説明する気は無い.犯人の林養賢が金閣寺を焼いた動機についてはWikipediaの記事や三島由紀の『金閣寺』などを参考にすると良い.三島由紀夫の『金閣寺』が金閣寺炎上事件を題材にしているということを俺は今まで知らなかった.

 

とにかく金閣寺を燃やすという気持ちに俺は強く惹かれた.言われてみれば俺は小学生の頃も,修学旅行で金閣寺を実際に見たときも「燃やしてみたい」と思っていたかもしれない.金閣寺には言葉に尽くしがたいものがある.虚飾にしか見えない華やかさや,それへの賞賛,仏教的な矛盾などが渦巻いているように見えて仕方がない.そして,それを燃やして昇華して自分を変えたいという気持ちは俺の中にも,おそらく金閣寺を見る全ての人間の中にあるのではないかと思う.銀閣寺や清水寺,八坂神社を見ても燃したいとは思わないが,金閣寺のみに燃やしたいと言えるような何かが確実に宿っている気がしてならない.

 

それから心理学の本を読んでいて,自分は数学よりも精神医学系の話題の方が興味があるのかもなという気がしてきた.物事を常に分析的に把握したいという気持ちが根強くあって,その中には”人間の心”という曖昧すぎるものを把握したい気持ちも含まれている.もちろん他人の気持ちなんてどこまでやっても分からないし,そもそも自分の本当の気持ちを知ることですら難しい.けれど僕たちの生活に僕たちの気持ちが密接に関わっているのは事実であり,生活の中から切り離しようのない”気持ち”というものを知ろうとするのは自然な考えだと思う.もっと言えばそれを,ぼくらの精神を定量的に,形式的に,学術的に記述して分析して対応することが出来るならそれは非常に有意義な試みになるのではないかと思う.もちろん気持ちなんて外側からではどうやっても,自分自身ですら知り尽くせないものを説明しようとするのは非常に難しい作業だと思うけれど,だからこそやっていけたら良いのではないかなと思う.

 

 

これから自分が精神医学系に進むのか,数学系に進むのかはまだ分からない.そこで東大の進振りが役に立つのかな.進振りの話をするといつも思うのだが日本の大学は全て進振り制度を導入するべきだ.高校の勉強で自分の専門とか分かるわけないじゃん.こういうと進振りで苦しむひとたちもたくさんいると反論されるが,物事を選択するのに葛藤や後悔といった苦しみが存在し得ない訳がない.ましてや自分の将来の専攻を決めるのだから,丁寧な判断や相応の努力が積まれるのは当然だと思う.高校卒業してすぐに専攻を決めるというのは,ごく一部の本当に適職を見つけたひと以外の多くにとって慎重な判断を捨てているだけだと思う.
後悔しない選択肢,と言い続けている人がいるが,後悔しない選択肢というのは存在しないことも全然ありえる.進振りの話だけでなく,僕たちの生活には多くの場面で,「どれを選んでも後悔するが,どちらか1つは選ばなければならない」という回避-回避型の葛藤がある.それを思って「仕方ない」ということも,仕方ない行為だと個人的に思う.赦されるとか忘れるとかそういう働きで物事を終わらせようとするのは間違っていると思う.過去に間違いをした人間は一生自分を責め続けなければならない.僕たちは一生自分を責め続ける勇気がないから「赦される」とかそういう言葉で終わらせようとしているだけだ.赦す行為は他人だけが持つ権利であって,赦されたと言って後悔をやめる権利は本当は誰にも与えられてない.僕たちは後悔を放棄しているだけで,本当は自分の過去の行いに毎晩悔やみ続けなければならない.とか今まで考えていたのだが,数学者Hardyは「自分よりも適切な者がいるのではないかと常に悩み不安になる人間は無能だ」と言っているらしくて俺の心に刺さった.最初は何故そう思うのだろう、と考えたけれど当たり前の話だった。人々が誰かに何かを任せたときに,その任された人が「本当は自分よりも適切な者がいるのではないか」と悩んでいるのは,人々の判断に対する懐疑だ.そもそも,任された人がそのような態度であったら嫌だと普通は思うだろう.僕はそんなことも20年近く生きてて気付いてなかったなあとか思った.とにかく自分には「本当の自分は優れてないが他人が何を履き違えて僕を評価している.あるいは僕が人々を上手く騙したから人々から今の賞賛を受けている」と思う傾向が強い.これは,自分について本当のことを言ってるだけだと今も思うけれど,強すぎる自己否定や謙遜表現だと他人から見られたときには他人を傷つける言葉になるので直さなければならない.そのような考えに基づく行いも人を傷つける.賞賛を受けても嬉しいとは思えないけれど,肯定されたら嬉しいことを最近知った.
例えばテストで100点とってそれを褒められても,僕は「100点取るに至る準備や環境があったから,100点が取れただけで褒められるようなことはしていない」と思うので,僕には本当は賞賛を受け取る機能がないのでは?と悩んでいたところ,「昔から変わらない特徴を褒められたときはどう感じますか?」とフォロワーの方から言われて,そういうときは確かに嬉しいなと思った.
つまり僕は行いへの評価ではなく,今までもこれからも変わらないような自分の性質を評価されるような,端的に言えば全肯定をされて初めて喜べるのだなと気付いた.ああなんか面倒くさい性格に育ったなと思った.満足感が常にない.それは自分が本当に欲しいと思うものを持ってないからなのか,あるいは単純に常に足りてないからなのか,それとも満足する機能そのものが不全しているのか分からない.食欲ですら胃が痛くなるほど食べてもやってくるので面倒くさい.なぜこんなに食欲が出てきたのかよく分からない.食べても体重が微塵も変化しないのは幸いなことなのかな.物欲と性欲と食欲のうち1つが欠けると他2つが強くなるみたいな言説があってそれに当てはまるのかもしれないが,それで考えると3つが欠けているから3つとも強くなっているはずだ.ていうかこの言説の根拠を僕は知らない.マズロー欲求階層説とか?よく分からないのであまり信じてない.満足感や充実感がない.生きていくための充実感を手に入れることを考えなければならない.でも本当はこれからどうすればいいのかなと論理的に考えようとすると,さっさと自殺したほうがいいという結論だけが出てくる.そして人間はなるべく早く自殺したほうがいいという考えは間違いではないと思っている.最も雑な言い方をすれば,生存というエントロピーの増大則に逆らい続ける行いは楽じゃないからだと説明できる.


なんにせよ今は勉強しなければならないのかな.数学の定式化や抽象化、一般化を用いて物事を統一的に把握していく議論の方法は個人的に好むところがある.一方で自然界の現象に面白いとは思えても研究したいと思えるほどの興味はないので,物理学や化学にはあまり興味はない.生物にも興味があるけれどそれも趣味の範囲の話だろう.だから,数学か精神医学とかやっていくために,今は浪人生から脱することを目指す.でもさ,研究して何になるの?楽しいから,お金が欲しいから?楽しければなんになる?お金があって何になる?遊んでいれば何になる?音楽を聴いて何になる?踊っていたら何になる?運動したら何になる?セックスしたら何になる?愛し合ったら何になる?承認さられたら何になる?有名になったら何になる?ささやかな幸せで何になる?新居を構えて何になる?温泉に行けたら何になる?綺麗な景色を見て何になる?仕事に充実があったら何になる?趣味が楽しくて何になる?とかすぐに思ってしまうのは,やはり生きる上で快楽の報酬系に不全があるからなのだろうか.あるいは社会性不安が強かったり回避性が強いのか.よく分からない.人間は楽しさという麻薬を常に獲得し続けなければいけない.ただ,やっていかなければならない.嫌なことから逃げるために.

勉強,バイト,介護,仕事,お金,奨学金,人間関係,恋愛,健康,期待,生存,過去の行い,これからの全てとか人間には抱えるべきものが多すぎる.でも野生動物だったら僕たちみたいな怠け者は親離れして1日で餌を見つけられずに死ぬだろう.兄弟間の餌取り競争ですら負けるかもしれない.メンフクロウの雛兄はお腹が空いてるやつに餌を譲る習性があるらしいからメンフクロウの子供になればよかったのかもしれない.人間は面倒だ.感情があるから面倒だ.でも人間以外はもっと面倒だ.そもそも生存そのものが自然に反していて非常に面倒だ.だからこそ,たまには心の中で金閣寺を燃やしてみるのも良いと思う.ツイッターとか自分とか現実には見たくないものが多すぎる.ああもう全部嫌だ。ここにしがみついてる価値はない。そもそも前から気に食わなかった。イライラするのは割に合わない。って秋田ひろむが歌ってた。ミラクルニキと燃えている金閣寺の心象,それをポケットに入れて生きていこう.数学もツイッターも君たちのことも僕は忘れた.

2017年5月10日 それでも僕は

現実が降り積もってやってきたので少し怖かった。自分が怖い。本当に自分は何を成そうとしているのか分からなくて怖い。他人も怖い。他人も分からない。でもそれ以上に自分が怖い。自分がどうやっていつ他人を傷つけるのかよく分からないのが怖い。まあ怖いこともあるよな。昨日見たホラー映画とか怖かったし。あと蜂とか結構こわい。他にもमर्डरとかटोकीओ यूनिवर्सिटीとか。ちなみにこの日記は5月5日 23時20分に散歩でぶらついた海沿いのベンチで脚を休めながら書いている。少し歩き疲れた。休んでいる。歩くのは嫌いじゃない。街を眺めていればいくらでも発見はある。はてブロに予約投稿なる機能があるのを知ったので使ってみた。予約投稿の時間は何となくで決めた。いや、それは嘘だな。横浜の街は俺に似合わないくらい美しい。海は皆は汚れてダメだというが俺からすれば美しい。なんだか海の中は気持ちよさそうに見える。溶けたくなる。まあ布団の方が気持ちいいし、誰かの隣の方が気持ちいいか。はやく布団か誰かの隣に行かないとな。海を見ている時間はない。歩くのも下手くそだからそこへ行くまでまだ時間がかかるだろうか。戻るべき場所はないならどこへでも行けるというが、そもそも俺にはどこかへ行く気は無い。これからどこへ行くのかは知らない。画面越しですら友達はいない。スタバのメニューも知らないし、ディズニーランドのファストパスも、インスタグラムに載せたくなるようなお洒落なお店も知らない。何を知ってたっけ、数学も知らないし知ってることはない気がしてきた。まあ何も知らなくても20年近く生きてこれたのだから、まだ当分は何も知らなくていいだろう。普段日記を書いていて、どんな陰欝な文章であっても、最後に「やっていくぜ」的な気持ちを表明して終わらせないと、読者は不満だろうと思っているので、いつも必ず「やっていくぜ」と言ってるのだが、本当のことを言えばおれにやっていく気持ちはちっともない。自殺したひとの話を聞く度におれもそっちに行けたらなと思う。生きていてとにかく面倒くさいなとしか思わない。つらいとか悲しいとかではなくて、どこまでも面倒くさいなとしか思わない気がして、それもまた嫌だから死ねれば幸いだ。窓の外にいる小鳥を見つけた瞬間にふっと消えるような死に方をしたい。あるいは愛する人に手を握られて若く死ぬとか。いやそれは死後に悲しみを残すのが嫌かな。空からギロチンが降ってきてそれが頚椎を真っ二つにするような怪死を遂げられれば最高だ。それで良さそうだ。しかし、どうやらそれができないらしいから俺は生かされている。交際とか、すれば何か変わるかなと思ったこともあった。しているときは焦りと、自分で相応しいのかという懐疑と、それに対して「もちろん自分は相応しくない。ただ自分を満たすために他人を騙して利用して隣にいるんだ」という答えが生まれ続け、それらを隠そうとしてぐるぐる回って寡黙になり、でも目の前にあるものを求め続けるだけで、またあとから後悔したりするようなことばかりだった。他にも、俺が相手を好きでもないのに交際関係を持ったことが言葉や態度に現れて深く相手を傷つけるようなこともあった。とても反省しているし、交際とかはしないほうがいいなと思う。交際相手を除いても、自分が自分以外の人間と対等であると感じたこと一度もない。71億人か1億3千人のランキングで最下位とまでは言えないが、普段生きてて自分より下の人間だな、と思える人間を見たことは本当にない。自己評価の低さ、極端な謙遜は相手を傷つけ得るとも言うし、実際にツイッターでは有識者が謙遜して無知を装った上で鋭い指摘をするような嫌がらせをよく見るのだが、それでも俺は本当に自分が優れてると思ったことはない。こういうことを言うのは悪いと知ってるのでなるべく言わないようにしてるが、閲覧数50のブログなら問題ないだろう。たまには正直なことも言ったほうが良い。おれは自己に対して否定的というわけではなく、客観的な評価をした上で自分にはとにかく何も無いと思う。これを変えるためには客観的な評価を捨てる以外の方法はない気がする。例え1億円手にいれても、俺に1億円が足されただけで、空虚だなと思うだろう。いやそれはないか?1億円を持ってないのだから、そこまで言及するのは早計だ。1億円を手に入れて、実際に検証するまでは分からない。とにかくそうやって交際に失敗するようなことが、本当のことを言えば3〜4回くらいはあって、比較的まともな終わり方が出来たのが最後の1回くらいで(あれがまともだと言えるのか分からない)、他3回は本当に俺のダメさが全面に出ていたので、なんかこういうの向いてないなと思った。でも”向いてない”という、どこまでも妥当な評価が出ている上で、愛するとか愛されるとかそういうものへの欲求が出てくるのは本当にどうしようもない。理性の負けと言える。嫉妬とか執着とか、自分で判断してやってきたのに、今更なことを思い出したり、とにかく感情は面倒くさい。それで、また何かを獲得すれば最初に戻って、「自分は相応しくない」と思い、十分な関わり方をしない。そういう態度だやってれば早かれ遅かれ破綻は起こる。自分は常に破綻を見越していてダメだ。破綻を見越したときに、何としてでも続けていこうといった方向に努力を向けるのではなく、まだ立ち直せるかもしれないところで、破綻後の事後処理に努力を振ろうとする。とにかく今言った通り、僕はやっていく能力が本当に欠損してると言える。こういうことを言うと病んでるとか周りに言われたりすることがあるが、平常運転で常日頃こうやって思って生きてきたので、なんか違うなとだけ思う。君が思ってる「元気な僕」のときも、本当はギロチンが降って死ねないかなと考えてる。嬉しい、楽しいという感情は全然あるけれど「美味いものを食べたいなあ」と思うくらい自然に「早く楽で後腐れのない死に方を得たいな」と思う。修学旅行中も遊園地でも水族館でもセックスしてる時でもラーメン食ってるときもゲームしてるときもツイッターやったりアニメ見てるときもそれは変わらない。もちろん死ぬための活動をしたことはほとんどない。僕にとっての理想の死が、死ぬための活動をした時点でそうでなくなるようなものだから、だと思う。こういう話をすると、やはり心配されるだろうし、心配かけたり同情を引いたりすることは全く求めてない(むしろそういうのは面倒)だと思うので本当は何も言わなければいいのだが、まあ、たまには言うこともあって良いんじゃないかな、と思って言った。僕からすれば「幸せになる」「夢を叶える」みたいな漠然とした意識をボロボロになるまで引きずり続けられてる人間のほうがよっぽど意味がわからない。夢も幸せもなくても、生活があれば良いというのも正直分からない。人生でやることは特にないなと気がついたら、さっさと楽に死ぬことを考えるべきだ。でも楽に死ぬ手段はその辺には全く落ちてないので、まあなんか難しいよな。それに未練とかもあるし。それなりに大きな幸せが手に入れば、やる気も出てくるのか?とよく思うが、それなりに大きな幸せを手に入れる能力が俺にはないこと、そしてそもそも”それなりに大きな幸せ”はそんなに無さそうということ、その2つは既に前述している。こういう意識が生まれたのがいつだかはよく覚えてないが、物心ついた頃から死ぬことを意識して生きていた節はあるので、かなり根本的な思考だと思う。覚えてない記憶だが、おれは幼稚園児の頃に、横断歩道を渡る前の左右の確認をかなり丁寧に行う子供だったらしくて、その理由を「死ぬかもしれないから」と答えたらしい。小学1年生の頃には、常に自分が死ぬ可能性を考えながら生きていた自覚があるし、とにかく俺は死ぬことや生きることに機敏で、やがて機敏な意識は苦しみを見越すことをし過ぎるようになり、最後には楽な死を求めるようになったのだと思う。この”機敏な意識”は、俺が覚えてないくらい幼い頃からあったことが親たちの話から伺えるので、先天性のものかもしれないし、気持ちの変えようで直るのかは分からない。とりあえず20年近くの期間こういう人間性を持ってたことは断言できる。なぜこんな意識を持って生きてるのか、まではある程度考えているけどここに書くと本当に長くなる。それで、その結果が現実での危機に対しする強い回避感情や、その回避感がもたらす他人への関わりの薄さ、損切りの早さなどにあるのだと思う。この回避感情は僕の中に厳密なルールを作っている。それは常にリスクの期待値が最も少ない行動を選ぶようにするルールで、メリットの期待値が高いものを選ぼうとする野心が僕にはない。一方で本当は恐れることや疑うことをやめたい気持ちがあって、つまり愛情を受けるようなことに対する欲求で、それは本能的な欲求で、つまりメリットの期待値が高い行動に踏み込もうとする欲求だ。しかし僕の意識に根強く残る回避感情、つまりリスクの期待値が高いものを踏もうとしない意識もかなり強くて、そいつらが激しい戦いを心の中でやる。それもまた本当に面倒くさい。生きてる上で一番面倒くさいのは感情だと思う。面倒です。とにかく面倒くさい。機械のようにただ書を読んで言葉が出てくるようになれば良い。あとは生活のための最低限の行動を無心でやっていられるようになりたい。そうでないのは何故だ。地球が恨めしい。海に対してなぜ俺を生んだと殴りたい。本当に海に沈んで海と喧嘩してやってもいいかもなとか思い始めたので、そろそろ帰ろう。俺は魚ではないし、非生物と喧嘩するような不毛なことをする時間はない。魚になりたいと思うことはある。水槽のなかで飼われている肉食古代魚ポリプテルス。でもこの魚を知るほど、俺みたいだから見ていて気持ち悪いなと思う。やっぱり魚になんてなりたくないな。何が悲しくて水を泳いでなきゃ行けない。他にやるべきことがあるだろう。さっきまで海に溶けたいとか言ってたのに海を嫌いだというし、やはり俺は手のひら返しが早い。俺はそういう人間だ。手のひらに乗せたものをくるっと翻して落とす。たぶん手のひらに物が乗ってるのが嫌いなんだろう。不気味なポエムをつらつらと書いたがこれら全てに意味はない。おれは人生で意味のあることを見つけたことはないので、意味がなくて当然だと思われる。意味のある時間を過ごしたこともない。だから俺から出てくる言葉に意味があるものがあるわけがない。毒を読ませるのだからこんなもんでいいだろう。俺は、性欲や自尊心や保身や退屈を埋めるために、白々しい言葉をこれからも他人に言い続けるだろう。喜んだり悲しんだり色々あるかもしれない。そういうのって大変だな、面倒だな、とだけ思う。それでも僕は、それでも僕は、やっていかなければならない。空からギロチンが降ってくるまで。いつか分からない。なるべく早いほうがいい。それまでは、やってくぜ。それでも僕は、やってくぜ。終わり。

 

追記:スマホはマジで海に落ちた

2017年4月29日 悪い種が芽を出して

*今日の日記は映画『ソラニン』並びに浅野いにおの漫画『ソラニン』などの致命的なネタバレを含みます。

 

腹が減る。最近きちんと食事をしていない。金がないのだから当然だ。食うものがないのは当然だ。働いてないのだから当然だ。なのに運動ばかりしているのは面白いな。

 

眠いし頭がぼーっとする。今日の日記は雑に書いた。脈絡のない話を読解する練習をしたい人には役に立つだろう。


妹が借りてきた映画『ソラニン』を今更みた。明日の朝には返してないといけないから、今晩中に見ておく必要があった。

 

世間の流行に疎いので、ソラニンがどんな映画で過去にどんな風に話題になったのか全く知らなかったが、わりと有名な映画らしい。

 

「種田は死ぬ」という致命的なネタバレを妹から食らいながらも、最後まで見終わった。

 

本当に種田が死んだ。それだけじゃなかった。芽衣子さんが種田の物語を引き継いだ。いやもう語れるものじゃないんだ。

 

感想が書けない。
頭の中にどろどろの鉛を流し込まれたように思考がぐるぐるしている。たぶん失恋したときくらい動揺している。自分がいまさら映画なんて見てこんなに動揺するなんて思ってなかった。なんて老人みたいなことを言ってみるが本当に衝撃だった。


脊髄から何かが入り込んでるような気がした。最後のライブシーンでは、手のひらに爪が食い込んで跡になるくらい、力強く拳を握っていた。芽衣子さんの歌を、3人の音楽をただ見ていた。頭の中に言語も思考も完全に消えていた。

 

好きな歌詞を書くけれど、これはJASRACに怒られるだろうか?とりあえず書く。


『昔 住んでた小さな部屋は
今は他人が住んでんだ
君に言われた ひどい言葉も
無駄な気がした毎日も』

ここの歌詞が一番好きだ。

 

『あの時こうしてれば あの日に戻れれば
あの頃の僕にはもう 戻れないよ』

みんなそう思う。僕もそう思う。

 

『たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする
きっと悪い種が芽を出して
もう さよならなんだ』

こんな歌詞で心動かされるなんて俺もまだ捨てたもんじゃないなと思った。

 


アニメ映画を除いた僕の好きな邦画で『ソラニン』がトップになった気がする。ちなみに2位は『桐島、部活やめるってよ』かな。

とにかく良かった。ソラニンはいいぞ。原作は漫画らしい。浅野いにおは友達が好きな漫画家だから今度借りてみようかな。おやすみプンプン(で名前合ってる?)とかも浅野いにおじゃなかったっけ。

 

他に書くことあったかな。ソラニンが凄くて日記を書くことにしてみたけれど、別に今まで通り虚無な生活を送ってきたから書くべきこともない。

 

寒暖差が激しくなるけれど、田中慎弥の『共喰い』を読んだ。これまた非常に興味深かった。共喰いについて語る気力は今はないが、今度詳細に語ってみても良い気がする。田中慎弥の共喰いで良いと思ったところは色々あるが、一番はタイトルが良いと思った。この話は『共喰い』なのだと、読み終えて思わされた。これ以上に相応しいタイトルもないと思った。それから遠馬と父親の関係も興味深かった。この話はこの辺で切り上げる。

 

それから映画『夜は短し歩けよ乙女』をみた。ミュージカルパートが長くてLA・LA・LANDだった。ララランド見てないけど。一緒に見に行ったやつは途中で寝てたらしい。そいつはおっぱいがでかくて柔らかそうで羨ましい。俺もおっぱいが欲しい。


話は原作に準拠している所謂カオス的なファンタジーとメタファーの混雑とした融合が、映像として見事に表現されていたが、逆に映像として混雑しすぎて分かりにくいかなと思った。実際に映画が終わってから女子高生集団が『分からなかった』と言ってるのが聞こえた。

 

良いところは、星野源神谷浩史の声が同時に聴こえたところだった。映像も十分良かった。ただやはり初見だと分かりにくいかなと思った。

 

 

他に書くべきことは、ないなあ。

 

最近は現実みたいなものが押し寄せてきて弱い僕には少し辛い。家とか、勉強とか、1年間の虚無とか、過去とか、生活とか。

 

生活がある。生活をしなければならない。でも生活は面倒だ。生活をするだけの準備が足りてない。生活に相応しい環境でない。でも環境を整えるだけの能がない。あっても努力をしていない。つまり僕が悪い。

 

悩むことが出来ない。悩みというのは近い未来にやってくる取捨選択に対して、どちらを選びどちらを捨てるかで図りかねていることを言うと思う。

 

そう考えると、未来は完全に終わっているし、過去については『僕が全面的に悪かったなあ』で話が終わるようなことばかりを抱えているから、僕はあまり悩めない。

 

恋愛とか、そういうことをすればもっと生活にやる気とか出てくるのかな。好きな人とかそういうのあったら良いのかな。好きな人ってどういうのだっけ。なんかドキドキして触れたくなるやつだっけ。知りたくなって怖くなるやつだっけ。人間は難しい。よく分からない気がする。それは俺が目を塞いでるだけなのか。

 

そこそこ勉強していたよなあ。誰に会うわけでもなければ、誰に褒められるわけでもないのに、一人で勉強をしたり、服を買ったり、髪を整えたり、そんなことをしていた自分は偉いのではないかと思う。それは、今まで1年半くらい続いて、もう1年間続くことになる。1年は膨大だ。本当に怖い。去年1年間ずっと怖かった。明かりもなしに暗い森の中に放り込まれたように怖かった。明かりもなしに暗い森の中に放り込まれたことはまだ無いけれど。

 

でも勉強も足りてなかった。人間性も足りてなかった。だから大学に落ちた。だから友達も恋人もいなくなってしまった。恐ろしいな。何が悪かったんだっけ。自分が悪いとか。あんまりそういうことを人前で言うのは良くないな。いや悪いことをして悪くなった感じではなかった。ただ最初から良いところに向かって歩いてないといった感じだった。

 

「やってればそのうち良くなる」みたいな淡い希望を、また1年間引きずるのも心底面倒くさい。ではやめるか?死ぬか?それもできない。僕はイヤイヤ病らしい。

 

恋愛とかどうやってするんだっけ。忘れてきたな。そもそも僕は恋愛に向いてないという客観的事実を18年間で学習した。

愛は欲しい。喉から手が出るほど欲しい。1度許されるともっと触れたくなる。どこまでも知りたくなって、もっと深いところまで許されたくなる。
そんな感じで喉から手が出続ける。節度も駆け引きも僕にはあまりないようだ。


そんなことで身を滅ぼしたり、相手の心を食っていたりするのは良くないなと思う。だから僕には恋愛は向かない。2回の経験で理解できた。3回目はないはすだ。

 

自分は底なしの強欲だ。節度がない。自分から振った人でも、ずっと自分のこと好きでいてほしいなとか思ってしまう。他人に関わりたくないとか言いつつ、忘れられたくないとか思ってるらしい。他人の変化が怖いらしい。自分の変化はどうだろう。変わろうとしているか。

 

何だろうな。お金があればいいのかな。お金を稼いで遊んだら幸せか。
友達を作れば楽しいか。恋人がいれば嬉しいか。冴えた頭で学びが得られれば満足か。趣味があったら充実か。美味いものを食ったら幸せか。綺麗なものを見れば満悦か。住む場所があったら安心か。愛があったら胸が満たされるのか。寝るとき隣に人がいればそれで良いのか。セックスしてれば気持ち良いのか。よく分からない。

 

自分に何が足りてないのかよく分からない。今手元にあるもの、あるいは手を伸ばせば届きそうなものをフルに活用したとして、それで自分がどう満たされるのかよく分からない。だから手が出せない。何をすれば十分に楽しいのか分からないから、楽しむために手を伸ばすべきものが分からない。

それは努力をしていないのか、努力をした上でこうなっていることを認めないのか、あるいはその両方なのだろうか。

 

底棲魚のように、川底でただずっと流れを見つめて、たまたま手に入りそうな獲物が来たらそれを掴むような、指向性のない運任せな生き方をしている。今日はソラニンを捕まえた。昨日は共喰いを捕まえた。明日は何を捕まえるだろう。

 

ということなので、僕を楽しませてくれそうな皆さんに期待しています。あとかわいい女の子を紹介してください。あるいはAmazonほしい物リストから何か奢ってください。


よく分からないことを書いた。この日記もそのうち消えるだろう。読んだ人はこう思うだろう。「センチメンタル気取ってて愚かだな」「つまらない自虐だな」「パッとしない文章だ」「くだらない臆病者だな」「虚無気取りだな」

 

そんなことを言われるのは悲しいから今度は晴れやかな話をしたいね。

 

家がなくても、読み込んだ知恵がぼろぼろと落ちていても、周りの変化に取り残されていても、愛とか獲得できていなくても、このブログを知り合いに見られても、何とかやっていかなきゃいけない。


楽しいことがないわけじゃないんだ。辛いことがあるわけでもない。と思ってるのだけれど、どうだろう。辛いことがあるのかな。辛いことがよく分からない。

 

よく分からない尽くしだなあ。どうやら人生には不明なものが多すぎるのか、あるいは僕の分析力が足りてないのか、その両方なのからしい。

 

感情に起伏がないと、感情の活動が悪くなる。厳密には楽しいものを獲得し続けてないと、楽しい感情の活動が鈍くなる。そうするとそのまま煮詰まったような頭になるのが分かる。

 

だから今日みたいに映画を見たり、けものフレンズを見て感情をほぐさないといけない。映画よりももっと強いものを。 

 

昔はそんなもの持ってた気もしないんだけどなあ。でも昔は今より笑ってた気がするから、気付かぬうちに色々失ったんだなあ。学校とか、恋人とか、娯楽とかかな。確かに失ったんだなあ。だからまた手に入れないといけない。そうしないと多分そのうち死ぬ。生きるのは大変だなあ。死ぬまでは生きている必要がある。

 

種田は死んだ。俺はまだ生きている。もう少しは生きているだろうか。

人生を自然主義文学の小説にしないようにしたい。適当にやっていこう。死ぬまでは。ソラニンの最後の歌詞を貼って終わる。

 

『さよなら それでもいいさ
どこかで元気にやれよ
僕もどーにかやるさ
そうするよ』

2016年4月16日 (雑記)信仰と高熱。

4日間も日記の更新を空けてしまった。といっても書くべきことはないに等しい。

 

ここ最近で自分の中で持ち上がった話題らしきものを箇条書きでまとめた。今日はこれらについて一つずつ虱潰しに語って行く。エイヤッと書いたので雑な話と誤字脱字と行間が多い。

 

そういえば住むところが決まった。良かった。金はなくても暮らしはある。暮らしには住むところが必要だった。
家の前に桜の木があって鳥が鳴いていた。ああ、春になってしまったと思った。また膨大な虚無の1年が始まる。インターネットと本と6畳間の部屋で終わる1年間だ。2017年なんて来て欲しくなかった。本当に。


目次
自然主義文学の呪い
・一人暮らしと貯蓄額
茨城県北朝鮮
・ピザポテト
mastodon
・蟹
・PTA
・進路と医者
・高熱
・田舎と信仰
・見たこともないほどきれいなチョコレートケーキ

 

 

 

 

自然主義文学の呪い
大して書くこともないのに目次なんて大それたものを銘打ってしまったことを何だか後悔している。

 

最近、小説を書こうかなという気持ちが出てきた。

”幸せ”を書きたいと思った。幸せな妄想を幸せな小説として形に表して、それを僕が読めば幸せになれるし、みんなが読んでも幸せになれるのではないかと思った。僕が何を”幸せ”として捉えてるのかまだよく分からないが、幸せの断片を集めてそれを文章の形にしたいと思った。

 

周りからの影響に後押しされている面もある。ツイッターのタイムラインを見れば人々が書いた文章で溢れている。詩や短歌や評論や小説も溢れている。そもそもツイッターとは140文字で完結する文学の形でもある。

 

物が豊かとは限らないが、精神的に満たされた環境で暮らしている青年がいて、彼は優しく人一倍繊細な心を持っていて、暮らしの中で現れた問題に大きく葛藤するが、それに答えを与えてみんなで幸せを掴み取る、といったそんな小説が書きたいと思った。
あるいは暮らしの中に問題なんてなくて、最初から最後まで幸せに満たされた小説、そんなものを書きたいと思った。

 

魔法にもドラゴンにも剣にも銃にも興味はない。

とにかく、死とか貧困とか苦しみとか争いとかそういうものを極力除いたものを僕は書きたい。

 

そうして小説を書いてみようと頭の中で妄想を繰り広げてみた。やがて大きな問題があることに気付いた。


僕が幸せをそんなに知らないことだ。
僕の頭の中には、僕の知ってる世界像には、幸せのビジョンよりも圧倒的に、幸せでないもののビジョンのほうが多く棲み着いている。

 

こう言うと、「じゃあお前の不幸を言ってみろ」「もっと不幸なやつはいる」「お前なんかが不幸を語るな」「お前の不幸はフェイク」「幸せなんてみんな知らない」とか言われたりするかもしれない。その通りだ。僕が不幸を知ってるとは思わない。でも幸せを知り尽くしてるとも思わない。

 

幸せではないものはたくさん見てきた、そしてそれらが脳の中に住み着いている気がする。
僕が頭の中に描きだそうとする”幸せ”を、僕が知ってる”幸せでないものたち”が侵してくる。
そんな感じの表現がしっくりする。

 

僕が知ってる幸せでないもの、幸せとは限らないものというのは、例えば人を刺して2年前に出所した左手の小指がないおじさん。例えば公園でダンボールの中に暮らす若者。

 

あるいは音楽とドラッグで生きる若者、子供のように喚いて泣く50代男性、野良猫と暮らすおばあさん、初体験がレイプだった健気な子、ネグレクトの家庭で援助交際して暮らす同級生、ODとリストカットを繰り返す女の子、慶應大学理工学部を卒業したけれど就職に失敗したので土木業に就職したところ仲間からいじめられることになった20代男性、熱海へ逃避行した高校生、真面目な性格なのに付き合ってる彼氏がダメで何度も中絶してる女子高生、人が怖い引きこもりの女子小学生、首を吊る父親、先輩に脅されて仕方なく横浜から新宿までバイクで大麻を運ぶ青年、不法入国者のタイ人マッサージ、マイノリティに憧れて同性愛を騙った若者、中華街で殴り合う泥酔した中年男性、1型糖尿病でいじめられる小学生の女の子、自殺未遂した就職浪人、才能が開かない若者、セックスに依存してオフパコを繰り返す若者、120万の借金がある高校生とか、そんなものたちだ。

 


そんなものたちが、僕にとっては昼ドラや漫画の登場人物ではなく、僕を取り囲むリアルだった。LINEの相手だったり、夕食を囲む人物だったりした。


だから脳内で世界を組み上げていくときに、僕の知ってるリアルに基づいて世界が組み上げられていくときに、そういった死や貧困や苦しみや争いに近いものたちが現れて、幸せに徹することができない。

 

彼らのことを一概に不幸だと見なしてるわけではない。
彼らには彼らなりの生活がある。全てを俯瞰して見ればトータルとして幸せな人もいるだろう。彼らが満足していればそれは満足だろう。
これらは彼らの生活のうち、僕が知ってる一部でしかない。でもその一面だけを取ったものを見たとき、それらは”幸せっぽくないもの”であると言えそうだ。そして僕は現実として”幸せっぽくないもの”の断片を”幸せ”よりも多く見てきた。

 

なんか不幸自慢みたいになってきたけれど、僕自身の生活は満たされてると思っている。健康な体があり、寝るところがあり、食べるものがあり、風呂もあり、本もインターネットもある。これだけで充分満たされている。でも僕が描きたい”幸せ”は、この満足感とは一致してない。


多くのひとたちは、風呂があることを書き出されても幸せだとは思わないだろう。もっとふわふわとした抽象的な”幸せ”に形を与えたいのだが、形を与えるべき”幸せ”もまだ把握しきれてないし、脳内世界を不幸が蔓延していて上手く話ができない。

 

というのが最近の悩み。まあ小説家になりたいわけでもないのだから、そんなに本気でやる必要もないのだが、心の中にあるものに整理がつかないのも何だか釈然としない。妄想に本気になっても仕方ないか。その通りだ。

 

そんな話を物書きの友人にしてみたところ、「とりあえず書いてみれば」と言われたのでそうすることにした。物書きの友人の仲間はこの間入賞したそうだ。権威を信仰し彼を信じて僕の心を信じる。

 

ちなみにその友人が言うには、僕には自然主義文学らしい考え方が頭の中にあって、その上で自然主義に反した小説を書こうと思っているから難しいのでは、ということらしい。自然主義文学について調べてみたが、確かにフランス自然主義文学に近い考え方があるかもしれないなと思った。文学史についてはそんなに詳しくないので詳しいことは書けない。
Fカップのおっぱいが揉みたい。ね、Fカップのおっぱい揉みたい本当に。


・一人暮らしと貯蓄額
ツイッターをしていたらこんな記事を見た。

"一人暮らしの人の平均貯蓄額は822万円、中央値は20万円"
http://news.livedoor.com/article/detail/12937592/

 

今日の富の偏在ニュースだ。やばい。21世紀の資本はまだ全然ダメらしい。トマ・ピケティもドン引きの調査結果だろう。

 

 

茨城県北朝鮮
茨城県北朝鮮で経済規模が大体同じという話を聞いた。それに対して、北朝鮮ですら核ミサイル作ってるのに茨城県は何してるんだというツイートを見た。


たぶんネタだからマジレスするべきではないのだけれど、平和でいいことじゃないかと思った。みんな茨城県核武装してほしいのか?そうではないだろう。北朝鮮が兵器にかけるお金と同じくらい、茨城県は県民の福祉にお金をかけているということだ。実際に茨城県民はみんな納豆を食べている。

 

ミサイルに対して無知なコメントを残している中高生が散見できたが、そんなに批判するべきことでもないんじゃないかと思った。子供はそういうものだし、かわいいじゃん。「現実に対して詳しくなければ死んでしまうだけだ」とか言われるかもしれない。その通りでもある。

 

 

・ピザポテト
ポテトチップスのピザ味がなくなると、みんなが悲しむらしい。ポテトですら、無くなってみると物のありがたみに気づかされるんだなあと思った。

 

本当の話をすれば、無くなるのはピザポテトだけじゃない。これから先にピザもなくなって、ポテトもなくなる。人々もなくなって、地球もなくなる。やがて世界もなくなる。もうすぐ全部が消えることに僕らはまだ気付いてない。

 

 

mastodon
次世代のSNSとして台頭しているやつだ。最初はRick Owensのスニーカーのことかと思った。


mastodonというのは元々は古代のゾウの名前で、それを元にしたロックバンドがあって、そのバンドの名前を借りてるのがRick Owensのスニーカーだ。

 

いまのところは、何かめんどくさそうだしTwitterからmastodonに移行する気はない。老人なので新しいものへの気力みたいなものがない。みんなが移ったら僕もTwitterをやめるかもしれないけれど。

 

つい最近までTwitterやってた人たちがmastodonに移ってツイッターのことを「鳥くさい」なんて言ってるのは変だなと思った。けれど、確かに最近のTwitterはressentimentを書いたツイートとか、社会への不満を4枚の画像で漫画にした話とか、御涙頂戴みたいな長文とかそういうものが多くて飽き飽きとしてきた気持ちはある。

 

 

・蟹
蟹ってどうしてあんなに美味しいのだろう。蟹はただ海底でモゾモゾしてるだけであって、地上で暮らす人間と本来ほとんど関わりのない生き物であるが、それでも蟹は美味いというだけの理由で、底引き網によって地上まで引っ張り出される。そして茹でられて食べられる。美味い。理不尽。美味い。

 

・PTA
今回はオタクではなくてPTAが子供を殺したらしい。残念な話だ。
オタクもPTAも危険ということなので、そろそろ人類を禁止したほうがいい。

 

あと「メディアが〜」ってツイートをよくみるんだけれど、Twitterもメディアだよねっていうのはクソリプだろうか。

 

ちなみに埼玉・東京連続誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤ロリータコンプレックスの代表のようにインターネットでは語られているが、実際は違うらしい。彼は大人の女性の代わりとして非力な少女を誘拐しただけで、幼い子供に性への関心が強いわけではなく、精神鑑定でもペドフェリアの傾向は強くないと判定されているらしい。どうやら本物のロリコン宮崎駿のほうらしい。

 

・進路と医者
事情があって妹の友人が私の実家に少しの間泊まっているのだが、昨晩40℃の熱を出してしまった。

 

そこで私が適切なものを買い物したり父が面倒を見たりなどの一連の流れがあって、その中で父が私に「お前は物の考え方が医者に向いている。医者になる気はないのか?」と言ってくることがあった。

 

正直な感想を言えば「お世話らしいものとは分かるけれど、医者でもなんでもない父にそんなことを言われて何になるんだろう」と思った。
それから僕はお金にも救命にも医学部にも興味はないので医者になることはないだろうなと思った。まあ医学には多少は興味あるかもしれないな。解剖学とかすごそう。

 

目上の人が「君は○○に向いてるね」なんて言ってくることは、生きてれば何度かあることだと思うのだけれど、その度に僕は「断片的な情報で適当に進路に口を出すのはどうなんだろう」「そもそもあなたは何を知ってるのだろう」なんて思っていたりする。当然それらは社交辞令的な要素や、目上の方のありがたいお言葉的な要素を持っているのでそんなことは口にせず、「光栄です」とか「精進します」みたいな内容の言葉を2行ぐらいにして返すのが正しい。

 

・高熱
事情があって私の実家にいる妹の友人氏が高熱を出していることはさっき話した。友人氏は当然女の子だ。そうしてベッドで寝ている友人に対して、私の祖母が説教をしていたシーンがあり僕はとても驚いた。

 

祖母は「熱を治すためには気力が必要で、あなたには気力が足りてないから熱が治らない」という主張と、その主張の根拠となる祖母の経験談を出生から今までくどくどと語っており、途中でそれに気付いた私はそれを止めに行った。さすがに熱で伏してる女の子に、「病は気から」論を説教する老人は僕はどうかしていると思った。

 

・田舎と信仰
そんな祖母は田舎に対して強い信仰がある。


よく八百屋に買い物に行っては、「これは田舎の露地物だから本物のトマトよ」なんて言ったりする。
その度に僕は「ハウス物は市販のトマトはフェイクなのだろうか…」と思ってしまう。

 

こうやってフェイクとかリアルとかレッテルを貼る様はまるでラッパーかなんかみたいだなと思ったりする。物に対する信仰の気持ちは田舎の老人とラッパーで同じなのかもしれない。僕らは有史以前から今までもこれからも、信仰と信仰で戦ってきた。適当なことを書いた。

 

ちなみに僕は品種改良をわりと信じていて、品種改良の末に生まれたフルーツみたいに美味しいトマトの方が、露地物のトマトよりも好きだ。だってそっちの方が人間の口に合うように生み出されたものだし、実際に美味しいのだもの。栄養とかは知りません。

 

・見たこともないほどきれいなチョコレートケーキ


どうやら北朝鮮はミサイルの発射に失敗したらしく、日本国民に犠牲者は出なかったようだ。良いことだ。さすがにアメリカと戦争をしたところで勝ち目がないことは分かっていたのだろうか、それとも単に北朝鮮がドジっ子だったのかは知らないけれど、「本物の戦争の味見せてやる」なんて575を言っておきながらミサイル発射に失敗するのはちょっと面白かった。いや575は新聞社が作ったものか。

 

トランプ大統領と中国の首相が会談するとき、”見たこともないような、きれいなチョコレートケーキ”があったらしい。この話を聞いて面白い言葉だなと思ったのだが、僕以外にも面白いと思った人たちはたくさんいたらしく、そしてTwitterで”文脈”なんて言われたりする言葉の1つとして吸収されてしまった。僕は文脈語にはどちらかも言えば影響を受けているが、しかしツイートの中で使いたくない傾向があるので、また一つ語彙を失うことになった。

 

明日はきっと見たこともないようなきれいなチョコレートケーキが降ってくる。そしてみんなで本物のチョコレートケーキの味を知る。きっとそうなるよ。頭がいたいので寝ます。おやすみなさい。終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追記:Fカップのおっぱいが揉みたい。Fカップは本当にすごい。魔法だ。安寧だ。Fカップのおっぱいが欲しい。脳が飢えていて心臓が枯れている。下心とかはない。ただ癒されたいだけなんだ。苦しみをほどきたいだけなんだ。誰かFカップのおっぱいを揉ませてくれないか。

2017年4月12日 ア

今日は何もしなかった。

今期アニメは電脳コイルというのが面白いらしい。

僕は新一年生なので線形代数をやっている。

妹に4日前くらい、お茶を淹れてもらったら「茶葉は多いほうがいいのかなと思って」とか言って激マズのお茶を入れてくれた。

僕はお茶葉は少なめの方が好きだ。上品を気取った薄味主義者なので。味噌汁そのものが嫌いだ。味噌をお湯で溶かすとか反薄味主義すぎる。


相も変わらずに、地球の自転周期を無視した生活リズムで暮らしている。

 

音楽が大人のせいだと歌っているのを聞いて、かといって僕はもう子供じゃあないんだよな、と思わされてしまった。

 

あるいは僕もまだ子供なのか?ていうか大人って何だ。

 

ちょっと前までオススメの音楽を日記の最後に書いてたけど、それを忘れてるのに気付いた。

かといって紹介するようなオススメの音楽もない。


音楽を聴いてないわけではない。自分は重度の音楽依存症だと思う。寝てるとき以外はずっとイヤホンをつけている。

人間が快楽物質を得る手段は色々ある。
まず酒や煙草などのドラッグ類。それから友達や恋人との相互承認。そしてセックス。アニメや映画や漫画やドラマなどを含めた芸術全般の鑑賞という手段もある。スポーツや旅行などそれであり、このような手段は数え上げられないくらいにはある。


上記の例は、快楽物質を得る手段つまりストレス発散の手段として比較的に継続的に行えるものであって、簡単に出来るものだと言えるだろう。

 

その中で僕はドラッグ類は嫌いで、友達や恋人はそんなに求めてないしそんなにいないし、スポーツや旅行する行動コストに匹敵するやる気も時間もないので、結局 音楽でのストレス発散に頼りきりになる。

 

といっても音楽でそんなに気持ちよくなるわけはない。せいぜい脳の処理能力のうち嫌なことを考える作業を、音楽を聴く作業に切り替えるくらいの役目でしかない。そうであっても、希死念慮か自己嫌悪か後悔から逃れる手段として長年使い続けてこれた程度には音楽に助けられている。

 

自分語りは長すぎずに終わらせようと思ったが、日記って基本的に自分語りしかしない場所だし、自分語りを控えようとする姿勢は日記を書く姿勢として謝りなのでは、とか思い始めた。

 

今日からはウィキペディアのオススメの記事でも紹介しようか。

 

今日はこれ
イスラーム世界の少年愛
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/イスラーム世界の少年愛

 

ちなみに日本の現行法では強姦罪は男性器を女性器に入れることを前提としているので、アナルセックスによる強姦の場合は傷害罪と猥褻物陳列罪等が適用されるらしい。

 

その他で面白い現行法の話といえば、女性が男性を無理やり犯して妊娠した場合でも男性に養育責任は発生するらしい、とかそういうものが思いつくな。

 

 

多分一生使うことのないだろうネタ

【こんな”まみむめも”は嫌だ。】

 

『魔、未、無、迷、喪』

 

終わり。

 

追記:
ウィキペディアの記事のurlをUTF-8エンコードしたものを貼り付けたのだが、勝手にデコードしたものを表示されていた。これではクリックでリンクに飛べない。面倒くさいのでウィキペディアの記事紹介は諦めた。

 

2017年4月10日 消える日記

ここ最近、記事の投稿に失敗し続けている。

 

4日は疲れてたので書かなかった、5日は保存ミスで途中からの内容が消えていたので削除、7日は文章の一部を消そうとしたら全削除してしまい、8日はきちんと書いたのになぜか何も投稿されていない。9日は心が折れたので書かなかった。

 

それなりに長くつらつらと書いたものもあるので、消えたのはショックが大きい。

 

一昨日は三渓園という大きな池のある日本庭園に出かけて、そこの内苑が秘密の庭園らしくてとても良かったのだが、その話をもう一度書き直すのもしんどい。

 

日記を書く気力がなくなってきた。このままはてブロも消しても良いかもしれない。

 

うーん話したいようなことは色々あった気がするがどれも消えてしまった。

 

オシャレの定義とか友達の意味とか、そういうことも2万字くらい書いた気がする。全部消えたけど。バックアップを保存してなかったのが悪い。

 

今日やったことと言えば、勉強をしたくらい。

 

コンビニで買った午後の紅茶が、キャップを開けた記憶がないのに開いていて不気味だったので道路脇の排水溝に全部捨てた。


昨日は東京に出かけて、家で有頂天家族を見た。

 

そんな感じで、また日記を書いていきます。終わり。


追記:倉狩聡の『かにみそ』を読んだ。面白かった。オススメ。

2017年4月7日 無

日記を書き上げて、最後に要らない文章を消そうとしたら誤まって全部消してしまった。今日は真面目に書いたのに。

 

書き直す気力もないので、欲しいものリストを貼って今日の日記は終わりです。

 

https://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/DVAA5DN78JVF/ref=cm_sw_r_tw_ip_wl_o_LDwVybV5ER3QC