読む毒

イヌ

2020年11月の日記 甘い香りの

甘い香りの汚れがついた。エアポッズの新しいケースに。白いケースに砂糖とコーヒーの香りがした。さっきすすきを千切った手で触れたから茎を潰した汁がついたのかと思った。すすきの花は金色で,さらさらしている。さらさらしているものが好きだ。絹糸とか,調子がいい時の自分の髪とか,よく乾いた砂とか。エアポッズにはキッチンで誰かがこぼしたコーヒーのあとがついたのだ。白いケースはさらさらではなくなった。砂糖だから水で拭いたらすぐにとれた。エアポッズのケースは一度失くした。人がこれらを失くす話はよく聞くが,自分こそは失くさないだろうとずっと思っていた。人が間違うことを知っても自分こそは間違えないだろうと間違えるときまで人は思うもののようだ。それからひと月ほどは外へ行くのにヘッドホンで音楽を聴いていた。街中でヘッドホンを使っている人を見ると親近感を覚えた。あんまりそんな人はいなかったが。

もう話が思いつかなくなった。いつもそうだけど日記を書き始めるときはタイトル以外何も考えてない。親しい人と会いに行くのに話すことを全て事前に決めないのと同じくらい。日記を書いている途中の気分で決めている。そうした方がきっと今現在の生の気持ちに近づく気がする。それって日記なのかな。体裁のない遺書に近い。話すことなんて何もない。あると思えばあるだろう。犬が猫の礫死体を見つけたこととか,引越しをしたこととか,他人の幸せを願うこととか。猫の脳みそは綺麗だった。目玉の裏側も綺麗だった。昔から想像していた通りの色だった。あなたのものもきっと綺麗だから,怖がらなくていい。小学3年生のときに一番愛していた猫が死んだ。その猫の体は埋められた土の中で私に見えないように消えていった。あなたがたは死んでしまう。恐ろしいことだ。悲しいことだ。引越しは何でも無かった。帰りたいという気持ちを初めて覚えた。今まで自分の家とされていたところはずっと居心地が悪くて出て行きたくてあまり戻りたくなるような場所ではなかったから,出ることだけを期待していた。家とされていたところから出て見ると,出るだけでは満ち足らず,自分は本当は自分が帰るにふさわしい場所がほしかったのだとわかった。自分の居場所が欲しい。それがあれば早くそこへ帰れるようになって,帰りたい。まだ見ぬふるさとへの望郷の気持ちが自分にもあるとわかった。そしてきっとそれはどこにもなく,叶わず,誰にも与えられないので,死ぬまでフラフラするのだろう。野良犬のように。いいことだ。

やはり話せることはいろいろあるようだ。それでも全部のことが話したくないだけかもしれないし,思い出したくないのかもしれない。話そうとしないのは,自分がつまらない人間だと知っているからか。ぼくは自分のことをつまらない人間だと思い込んでいる。一方で私にとって本当に面白いものは私だけだとも思っている。他人を楽しませるつもりで何かをしようと思わないから,他人にとってはぼくはものすごくつまらないはずだと思っている。そして常に自分を楽しませることができるのは自分だけだから,わたしを楽しませることが最も多いのはわたしだとも思っている。離人症のような自己管理観だろうか。

世界と自分はまず分離されていて,世界とは自分以外の物事のことだ,と思う。そうして自分は常に世界を見ている。世界に興味がある。そして世界の中でも特に深く,面白い,ひみつを見ること,そのために自分の体と心を捧げたいと思う。自分から見て自分と世界のふたつしかこの世にない以上,世界に与えられるものは自分しかない。人が世界を愛することは,世界のひみつに触れたいと思うことは,人が人を愛するのと同じくらい自然なことだ。人も世界なのだから。

世界の次には自分の問題がある。自分はどうやっても自分から切り離せない。死ぬまで。それとも,死んでも。自分のことは,自分が自分であることから目を離しているとき以外は常に問題だ。この世には自分と世界以外のものはないので,世界を見ていないときは自分を見ていることになる。ただ見ているだけではなく,そこにある問題を考える。そうしたいからそうする。自分の問題を。まず自分には自分の自分の体と心がある。さらにその自分の体と心を客体化する,よりメタな自分があるような気がする。わたしがすることはそのメタな自分とどれだけわたしを同化させられるかということ,という気がする。このメタな自分というのは,きっと自分の心の一部で,深層心理であるとか,自分の思考の中にあるシステムであるとかだ。

まあ,そんな感じ。今はこんなことを詳しく書くことに興味がない。何年も普段ずっと思っていることは,自分にとっては書くまでもなくわかりきったことで,あなたがたにとってはそうでない。詳しく知りたいなら話しかければ良い。何かを知りたいならいろんな方法で知ればいい。ひみつを焦らすものからひみつが知りたければ,手に触れて暴くのがふさわしい。わたしを知りたいなら会うのが手っ取り早い,といつも思っている。わたしが怖いなら一生会わなければいい。それがふさわしい。ちなみにわたしはあなたがたが怖いのであまり会わなさそうな気もする。どうだろう。別に怖くもない気はする。誰も近づきに来ると思っていない,というところもある。わたしを心配する人にはこういう振る舞いは心配されるが,相手が嫌な人間かどうかもまた相手を知るまで知れない。ちなみに自分にとって嫌な人間だった場合は,それを直接知ってからでは一歩遅い。相手が自分を欲しくて近づこうとしているなら求める人間に求められるものを少しでも与えればそれは悪いことではなかろうとも思う。でもそこまでして自分が他人に何かしようと思うこと自体気まぐれや自傷行為でなければほとんど無い気もする。それで,もしそうして何かでわたしを見ることがあれば私がいかにつまらないかということが知れてあなたは満足するだろう,と思う。それはいいことだ。真実を焦らすことよりよほどいい。もしそうならないのであればあなたは私に向いているか,もっと時間が経てばやはりいずれそうなる。

何だか,こうしてあなたがたに対して思う自分の態度は,自分以外が言っていたら自分は説教しそうだと思う。「もっと人を信じなさい」「人に目を向けなさい」「人に怯える必要はない」「人は怯えるほどのものではない」「人と心を通わせようとしなさい」「人と心を通わせることは,万物を世界と呼びかけてひとり遊びに励むことより貴重なことだ」,そして「人があなたの期待に応えられないことに悲しみたくないから人に期待しないのではなく」「人があなたの期待に応えられないことを許せるくらい余裕を持ちなさい」と説教したがる気がする。むかしよりは絶対に人への興味は増えていると思う。人は世界の一部だし,人のことは自分には少ししかわからないから,面白くないわけがない。動物園や海や山で生き物を見つけて見ているだけで面白いのと同じ理由で,人も見つけて見ているだけで面白いはずだと思う。そして言葉が通じたり,心を通わせたりできるならもっと面白いはずだが,こう考えるのは違うのだろうか。

眠い。寝る。今年ももうすぐ終わる。恐ろしいことだ。自分とあなたがたの残り時間が減っている。私の愛はせいぜい何十年かかけて消え去る。いいことだ。私が減るのはいいことだ。あなたがたはそうではない。私は減っていく。せめてたくさん楽しませてください。私が死ぬまで。