読む毒

イヌ

2020年6月4日 泣きたくなかった

日記ではなく,回顧録

 

幼い頃から中学生くらいの頃にかけて,自分は何かを恐れたり怒られたりして泣くということがすごく嫌いだった。理由は,泣くことが精神的な屈服を表していると思っていたからだった。子どもらしくてシンプルで良い理由だ。

 


それでも,子どもらしく半ベソになったり目に涙を溜めたりした記憶はたくさんあった。親に怒られたり,先生に怒られたりしたときだ。昔から大人に怒られることは多かった。今でもそうかもしれない。好奇心が強すぎて制御不能で,人の話を最後までおとなしく聞かず,さらに怠けもの,そんな感じの典型的な怒られる子どもだった。ただ学校には絶対に物の破壊活動や他人への攻撃に勤しむ男児がいると思うので,それよりはマシだと思っていた。自分の意思と大人が決める生活に衝突があるだけだと思っていた。まあたぶん自分は結局今でも悪い子のままなのだろう。悪い子と言うのは肉体労働をして得たお金を肉親に還元せず弱ケーニッヒの補題と同値になる命題に興味を持ったりすることだ。

 


そういったわけで子どもの頃はたくさん怒られてたくさん泣きかけたことがあっただろう。そういったとき自分がそこまで泣きそうになった理由を今でも明確に覚えている。というか,今思い出しても同じ気持ちになれる。

 

それは

『自分は"""絶対に間違っていないのに""",体面を取り繕わずに大声で怒鳴り散らかし,自らの暴力性を匂わせている男の人やおとなの人の興奮状態を鎮めるために,自分が悪かったと認め,隷属的な態度を取らなければならない』という状況の不条理さだ。その屈辱感に怒りを覚え,それから自分に強い無力感を感じた。情けなさを感じた。間違ってないのに,間違ってましたと言わなきゃいけない,その無力感に泣きそうになった。でも我慢した,という覚えがたくさんある。一番古いものだと幼稚園の年長組で室内水泳の課外授業をしていたときだ。(この話はしないけど)

 


そういうわけで大人とか先生のことは何となく敵視するようになった気がする。(関係あるか?)

高校生くらいになると心と身体と自立心が発達していたので完全に大人のことを舐めていた。自分は間違っていないと思うのに大人から怒られているとき,「私は間違っていないのに,自らの感情を総動員して怒りの状態に陥ってるこの大人は,完全にただのアホだ」と内心笑いながら反省の言葉を出せるようになっていた。

 


それからさらに時間が経って,今では泣こうと思っても泣けない,というのが実感に沿う。何かに泣くような理由は自分にはなくなった。あるとしたら目に砂が入ったときとか男に目を殴られたときとかだ。(目を殴られたら病院に行こう。逃げることができたらの話だが)

今の自分は屈服したくないみたいな自立心とか弱さを見せないとかそんなことを考える必要は今やどこにもない,とすら思っているかもしれない。そうであれば,涙を見せて弱ってる様子を醸し出すなら今しかないぞ!というタイミングで人工的な涙が出したことは大人になってからいくらでもあっただろう,という気もしてくる。きっとそのことを覚えていないだけで。クソ人間だ。おわり。