読む毒

イヌ

2018年5月9日 食事について思うこと

(雑感)

食事というのは私が生まれたときからずっと抱えている重大な問題なので、色々と思うところがあります。
今日はそのことについて雑に書きます。人と違っているところがいくつかあると思うので、見た人は怒るかもしれません。
敏感な人は見ないでください。見たなら怒らないでください。

自分は食べ物に感謝していると思います。
たまに食べ物を見たときに、それが元々は何らかの動物だったことを思い返して痛切に悼む人がいますが、自分はそれほど悲しむことはあまりありません。
理由は想像力と経験の無さに由来しています。
(*生き物としてウナギが好きなので、ウナギが食べられてることには悲しんだりします。ネコやイヌはまあまあ嫌いなので、それらを食べる文化があったとしても全く何とも思いません。僕にとってはダンゴムシの方が重要です。)

コンビニにあるような加工され調理され尽くした肉や卵を見て、それらの原型がどんな動物だったかを想像することは、自分には簡単ではありません。
それから、動物を殺して、加工し調理して肉塊にした経験もあまりないので、動物を殺す様子もあまり知りません。
これらのことが、これから食べる肉塊を見ても特に感情を沸かせない理由になっていると思っています。

しかし前述のようにある程度の感謝はしています。食べ物の元となった動物の死に関する想像力と経験が強くなくても、死というものの漠然としたイメージはもてます。
それから社会的にお粗末にするべきでないという要請があるので、それに従順な態度もする必要があります。

何より、働いたお金と毎日の時間を大きく削ってまで食事という儀式をしているのだから、それが有り難いものであると信じ込まなければとてもじゃないけど馬鹿馬鹿しくなります。

食事というのは、原材料に対する気持ち以外にも、加工・調理者(*ほとんどの場合で人間)に対する気持ちも抱く必要があります。
私は人間によって食べ物を差し出された場合は、口に付ける場合は必ず完食するように心がけています。
"調理者への感謝は完食することで表さなければならない"とするのは完全に間違った主張だと思っていますが、一般的にそういう気持ちが人間にあるのでそれに従っています。

("調理者への感謝を完食で表さなければならない"ことへの反例は簡単にできます。例えば30kgの料理を作った人がいたら、それを1回の食事で完食することは人間にはまずできません。(*ゾウならできるかもしれません)
馬鹿げた例だと思うかもしれないので他の例を考えると、例えば胃の機能が低下している人は一般的とされる量でも食べきることは難しいでしょう。こういった例を除外して考えるとするなら、除外することを肯定する理由は何でしょうか……)

口にする場合は、と書きましたが口にしない場合も十分あります。なるべく自分の前に口にしたくないものが現れないように最大限の努力をしていますが、そういったものが出てくる場合も十分あり得ると思います。そういったとき自分は一口も食べないと思います。

食事というのは自分にとっては幼い頃からストレスでした。
まず、よく分からないものを口に入れて飲み込むという動作は、非常に不衛生に感じられます。素朴な感情です。
人間は、この世に存在する大概のものは口に入れないようにしていますが、食べ物と飲み物だけは口に入れます。(それから、恋人など他人の体の一部)
食べるという理由で、物を口に入れ、飲み込んで体内にまで入れるのはなかなか違和感があります。
食中毒などもあり、人は食べるという行為をしただけで最悪死にます。
(*その食中毒さえなくても誰かが毒を入れていたら死にます。ところで食虫植物というものがありますが、わたしはあれが好きです。)

食べても食べても数時間後にはそれらを排泄するということも、掘った穴を埋められるような気分になります。それどころか自分の体から汚いものが出てくるのも嫌な気分になります。
人類が、蟹のように砂の隙間にある有機物だけを吸い込んで完全に分解しきる消化形態なら良かったのにとよく思います。
人間が蟹を好きになるのはこのような背景があると自分は思っています。
人は潜在的に蟹に憧れています。

それと食事にはルール(マナーと呼ばれているもの)が大量にあるので、例えば食事中に食事以外の何らかの作業をすることが良くないとされています。そのため食事をする際には食事だけに専念することが求められ、これはシンプルに不便です。

ここまで読めば分かる通り、自分は食事に関する抵抗感が物心ついたときからそこそこあり、それは止むことなく毎日続いています。
抵抗が少ない食べ物というものがいくつあるので、それらを優先して食べようとするため偏食が強い方だと自認しています。

可能なら、何一つ食べたくないという気持ちが強いです。水は体温調節に便利なので水を飲むことは認めたい気持ちがあります。生物も人間が食をやめることが可能なら、殺されなくなることが可能になるので嬉しいんじゃないかと素朴に思います。動物が何を考えているか知りませんが。

しかし、人間は何も食べないでいると死ぬので、今言ったことは可能ではありません。餓死したくない気持ちが食べたくない気持ちより強い限りは食事を強いられることになります。強いられてきて、生きてきました。
(*ダイオウグソクムシなら食べなくてもそれなりに長く生きられるらしいので、ダイオウグソクムシによく憧れます。)

『可能なら食事をしたくない、食べるとして偏食ぎみになってしまう、ということは"食事への感謝"とはまったく相反するものではない』ということを主張するのがこの記事の目的だったのですが、飽きてきたので話を変えます。

(*そういえば烏龍茶を久しぶりに飲んだのですが、記憶にあったよりも苦い気がしました。)

自分は睡眠障害(*診断書無)があるので、普通の時間に寝ることも起きることもできません。
日本時刻において社会が一般的に活動を開始する時間に起きることは到底できないので、夜間の大学に通っていますが、その時間ですら間に合うことがだいぶ難しいです。(*というかほぼ間に合っていません)

であるから朝起きてほぼ何も食べず支度をして大学に向かい、それなりの時間を電車に乗っているのでやはり食事をする時間はなく、大学に着いても遅刻ぎみかギリギリなのでやはり食事をする時間はありません。
しかし食事をしないでいると空腹で気持ち悪くなるし、脳のパフォーマンスも下がるので、生きるというのは本当に不便だなと思います。

簡単かつ即座に食べれて(*3分以内が理想)、栄養があり、空腹を解決できる(つまり胃の消化機能を十分使う)ような食べ物が早くできると良いなあと思います。(*仙豆ですね)