読む毒

9歳の女児です。東京大学理科1類を目指して浪人をすることになりました。このブログを読むとあなたの貴重な時間が消えます。

2017年9月10日 6494文字

最近何したっけ。なんか色々した記憶があるなあ。顔を知らない祖父の遺品整理したり、友人と車で日本の上半分を周回する旅行計画を立てたり、女の子と新江ノ島水族館に行ったり、女の子と観覧車に乗ったり、犬に噛まれて血を流して感染症で生命の危機に瀕したり、ミサイルが日本を通過したり、量子力学から熱力学第二法則が導出されたり、世界が終わったり。勉強はしていない。僕たちは自分の小ささを忘れるために大きな物事を好むので世界が終わるとかそういう話が好きなんだと思った。どこから書けばいいのか分からない。 思い出した順に書いていくことにしよう。まず僕は1998年8月9日に出生し、今は京浜東北線の終点の大船駅に電車で運ばれている。あるいは父親が私の自転車を盗んだので駅から歩いて家に帰っている。あるいは喉が痛い。あるいは日をまたいで書いている……

 

京浜東北線は非常に怖い。窓から見える景色が怖い。というか横浜の地形が非常に怖いのだ。横浜は盆地のようでちょっとした凹凸が多い。小さな山や突然の崖が乱立してる感じだ。ところどころに急斜面が発生し、それに伴って階段が発生する。この凸凹とした地形に合わせて住宅街は展開され、気持ち悪い場所にキモい形の一戸建てが建造される。植物をあえてキモい形に育てている盆栽を見ているようだ。もし盆栽が目の前に1つ飾られているだけならすごいと思うだろうが、地平線いっぱいにぎっしりと詰まっていたら怖くなるだろう。横浜の住宅街を見ているときの僕の気持ちはそんな感じだ。それだけではない。住宅街がこれだけあるということが怖い。住宅街の地平線を皆さんは見たことがあるだろうか?そこには山はない。そこには海はない。そこには畑はない。そこには田んぼはない。そこには森はない。そこには高層ビルはない。そこには住宅街しかない。人が住む一軒家とそれらの間を縫うように通る細い道路、血液のように流れている自動車、時折の団地や地域的な商業施設があるだけだ。これは非常に恐ろしい。この地平線いっぱいに広がる住宅街の家1つずつに人間が住み、家族がいて、生活をしている。仕事に行くもの、学校に行くもの、昼間に起きて二日酔いのまま大学に行くもの、学校をサボってネトゲをするもの、生理で学校を休んだもの、夕飯の買い物をするもの、部屋の掃除をするもの、帰宅して制服を脱ぎ夕飯まで漫画を読むもの、共働きの両親がいない昼間にセックスをしているもの、直ぐに予備校に出かけたもの、コンビニに行くもの、夕飯を作るもの。あるいは仕事のないもの、ワンカップを持って公園のベンチに座っているもの、ショッピングモールで高い服を買うもの、水族館に行くもの、大麻を吸っているもの、出産するもの、殺されたもの、病死したもの、自殺するもの、そういった大量の人間たちが1度に私の視界の中に存在していて、蠢きながら私と全く関係なく生活を営み、金を使い、思惑を巡らせ、人に危害を加えたり仲良くしたり、そんなことをしているのだと思うと、膨大な海を見たり夜空を見たりすることよりも遥かにゾッとする。コンクリートの下にヒアリの巣を見つけたとか、家の屋根裏にシロアリの巣を見つけたとか、そんな感じがする。ゾッとするんだ。ゾッとする。地平線いっぱいに歪な盆栽のような形をした植物が植えられており、その間を大量のヒアリが繁殖している——ような怖さがある。そのような場面を見たことはないし、そのような場面を見たときに感じるものとは確実に違うので、実際どうなのか知らない。


今日は月が綺麗すぎる。この間iPhone7に買い替えたが、どうやらまだiPhoneのカメラでは、この橙色を帯びて丸く力強く発光する月の綺麗さを捉えきれない。残念だ。月は1ヶ月周期で綺麗になるので、その度に「ああ1ヶ月経ったな」と思う。それから図書館で本を借りたとき私は2週間で読み終わらないので(一度にたくさん借りるので)、必ず延長してもう2週間読んでから返す。そういうときも「ああ1ヶ月経ったな」と思う。この1ヶ月間ぼくは何をしただろうかと思い返す。何かをできたな、と思えたことがない。こうして虚無の時間を過ごしているうちに記憶は色褪せて全ての大事な出来事が不可逆的に決定していき熱意は1つずつ確実に冷めて、最期は死ぬということ僕の今までの全てが物語っている。嘘をつけ。物語などない。何もない。いいか、何もないんだぞ。世界に何かがあるということは一度もないんだ、と宣う人はこの世に存在するものの全てが認めたくないのだと思う。雑な話をした。

 

じゃなくて、今日は顔も知らない祖父の遺品整理をしていた。もう昨日の話になってしまった。日記が長くて書いてるうちに日付が変わってしまった。祖父はこの間亡くなったらしい。
祖父の家には色んなものがあった気がする。そこに本当に色んな物があったかは分からないが、少なくとも物はあった。本当に物があったかは分からないが、少なくとも遺品整理をしている僕と父と祖母には物があるように見えた。本当に彼らが物があるように見えていたかは分からないが、少なくとも彼らが物があるように振舞っているというように僕は認識できた。
祖父の話をしよう。僕はおしゃべりだ。今日の日記は長い。分割して書くべきだろうが、そんなことはしない。

 

祖父は僕の父親の父だ。というのも祖父と呼ぶべき人物が他にもいて、祖母の再婚相手の男性のことを祖父なのだと子供の頃は思っていた。それから叔父さん叔母さんの父親も、僕の父親の父とは違うらしい。祖母の再婚相手の人は僕が小2の頃に脳梗塞で亡くなった。この間亡くなった祖父も脳梗塞を患っていたらしい。脳の病気は怖い。スズメバチや犬よりも怖い。
祖父は祖母と離婚してからは何十年も連絡をとってなかったらしい。父も祖父には会ってない。しかし十数年前からは偶然にも実家から歩いて行けるほど近いところに位置するマンションの5階に住んでいたらしい。奇遇だなと思う。そのマンションに住み始めた頃には祖父は既に脳梗塞によって歩行困難になっていたらしい。祖母が言うには、祖父は仮に息子や孫と会えたとしても自分が病気で苦しんでるような姿を見せるくらいなら会わないことを選ぶような人物だったらしい。僕も同じ境遇ならそうすると思った。でも単に祖父が祖母や父に興味がなかった場合もある。

 

祖父の遺品は面白いものが多かったので、遺品整理は面白かった。例えば日本の綺麗な鳥の写真集があった。僕は鳥が好きなので家に持ち帰ることにした。それから小笠原の写真集があった。祖父は小笠原に住んでいた人間らしい。小笠原の写真集には手紙が挟まっていた。2012年に、日吉にキャンパスがある大学に在学している女性から贈られた手紙だった。どうやら祖父とその女子大生は小笠原で知り合ったらしかった。女子大生の方は小笠原の海の絵を描いて、それに添えた手紙のようだった。きっとこの女子大生のほうが、僕よりも祖父の人生に詳しいと思った。僕は祖父の年齢も顔も知らない。
それからアルコールのウェットティッシュや、粘着ローラーの替え玉、ティッシュペーパーの貯蓄などがあった。この辺は僕も頻繁に使う(本当に頻繁に使う)ので貰えるのは嬉しかった。あとはジャズのCDが大量にあった。服は冬物の服がかなり多かった。クリーニングに出したあと着た形跡のないスーツがたくさんあった。デザインが若者向けではないが、スラックスは裾を下ろせば履けそうだった。ジャケットは肩周りが気持ち狭いが着れないこともないと思った。まあ多分着ないだろう。
ベランダには植物の植木鉢が並んでいた。植物が好きなのかな。僕も植物は好きだ。好きだったが、一度買ってみたときにみんな枯らしてしまったので二度は買わないことにした。でもいつかサギソウとか買ってみたいな。ラン科の植物が好きなんだ。(ラン科といっても非常にたくさんあるけれど) 植物園に行ったときとかに温室にたくさんのラン科が並んでるブースを見ると非常に楽しくなる。記憶に新しいのは神代植物公園と、新宿御苑の植物園だ。新宿御苑の植物園にあるランの花は良かった。後期試験をサボって見に行った甲斐があった。子供の頃に祖母にランの展覧会に連れて行って貰ったことがある。小学校に行く前のことかな。サギソウを生で見たのはその時が最初だったような気がする。それ以前から見たことがあったような気もする。とにかく僕はランが好きだ。話が脱線した。祖父のベランダにある植物は残念ながら全て枯れていた。祖父が入院しているうちに枯れてしまったのだろう。玄関にあった植木鉢だけが生き残っていたので、祖母はかわいそうだからと植木鉢を持ち帰った。僕は荷物になるからやめたら良いのにと思った。祖母もランが好きだが、ランを含めて植物全般が好きでサボテンなんかもたくさん育てている。僕は植物は好きだけど育てるコストをかけてまで身近に置きたいと思えるのはランと苔と食虫植物くらいしかないかなあ。また話が逸れた。
冷蔵庫には未開封のハーゲンダッツのバニラ味が3つ残っていた。遺品整理に来た僕、父、祖母のちょうど3人分だったので休憩として食べた。見知らぬ家の不明な汚れてるスプーンを使いたくなかったので僕はスプーンを使わずに齧って食べた。カップのアイスをスプーンを使わずに食べるのは難しかった。野菜生活100の箱買いなどもあった。野菜ジュースは好きなので持ち帰った。それからアダルトビデオなども発見した。元に戻した。ガラスの中に正多面体が埋め込まれている飾り物なども見つけた。使い道はないと思ったが、理系っぽいインテリアとして僕の部屋に置いておくのも悪くないと思ったので持ち帰った。ロト7の宝くじ3枚を見つけた。2100円当たっていたので換金した。
日本の城や世界遺産を特集したDVDたちも見つけた。父が持ち帰った。銀行の通帳を見つけた。それからカード入れを見つけた。カード入れにはバスの乗車券の他にテレホンカードとメトロカードがあった。調べたところメトロカードはもう使えないが、2018年までに換金すれば1000円になるらしい。保存してコレクターに売るべきか(コレクターいるのか?)換金するべきか悩んでいるが、状態がそんなに良くないので換金したほうが良さそうな気がする。
未使用の靴がたくさんあった。革靴とか雪国用の靴とか。それらはメルカリで売ることにした。祖父の家で見つけたものは、このくらいかな。9月中は祖父の部屋は借りてるままらしい。


メルカリと言えば昨日は出品したまま放置していた靴が売れていて1ヶ月くらい見てなかったので驚きながら発送した。メルカリの発送はファミリーマートから簡単にできるのだが、こういった操作も覚えさせられる店員さんは大変だなと思う。メルカリには久しく触れてなかった。あるブランドで数年前にワンシーズン販売された特定の欲しい服などがあるときは、それが出品されてないかメルカリに粘着してチェックするのだが、そういうものがないときは全く見ない。見てない期間に限って欲しい服が出ている。そういう好機を逃したとき、僕はあまり悔しがることがない気がする。なんとなく、チャンスを逃しても「おや、そうか」で済むことが多い。千載一遇のチャンスであっても、かけがえのない何やらを失くしたとかでもそうだ。時間が一過性のものである以上、機会を逃したら次を待つか、狙うのをやめるか、チャンスを無理やり作るかの3つしかない。悔しがるというのはこの3つの選択肢のうちどれにも向いてない行動だと思うし、無駄に感情を使っていると疲れる。感情はもっと鎌倉で木造建築のスターバックスを見つけたときとかに使うべきだ。でも、こうやってすぐに気持ちの切り替えができることは良くないことだと僕は思う。悔しがることをあまりしないのは、執着や熱意がないのと同じで、強い熱意のない人間は何もできないと思う。熱意が欲しい。もし家の周りにオオスカシバが100匹飛んでいたら、きっと毎日やる気が出ただろう。僕はオオスカシバが好きだ、好きだ。今日もオオスカシバを眺めてやろうという気持ちになれただろう。僕はオオスカシバが好きだ。僕に熱意がないのはきっと庭に100匹のオオスカシバが飛んでないからなのだ。きっとそうだ。オオスカシバが飛んでいれば、僕は、きっと幸せで、生きていたはずだ。
昔の僕はもう少し貪欲で、世界の全てを征服してやろうというくらいの気持ちがあった気がする。今もあるかもしれない、昔ほどではないが。当時は何となく感情の無駄遣いをしない人間になろうと思っていた気がする。少しずつ感情の無駄遣いをしないように変わっていった気がするのだが、何かに失敗したらしく自殺や死ばかりを考える人間になってしまった。昔は全てに過敏な人間だった気がする。今もそうかもしれない。感情の振れ幅を抑えたくて、悔しいとか怒るとか悲しいとか虚しいとか期待するとか、そういうことをしないようにしていたら、何も思えない人間になってしまった。希薄になってしまった気がする。気持ちが希薄な人間は生きていけない。熱意のない人間は生きることができない。それが無い人間は、生活の全てが苦痛を伴うだけのコストだなあと思うだけになる。今はすでにそうなっている。食事が楽しめない。胃と腸を動かして生命を維持するためにお金を払って食材を買って料理して食べて食器を洗って、という一連の作業がこれ以上なく苦痛だ。お風呂に入って髪を2回シャンプーして1回リンスして洗い流して、身体に付着したリンスも洗い流して、という作業だって苦痛だ。息を吸って吐いてを毎秒繰り返すのだって、僕に生きたいと思わせる強い気持ちがないのならそれらは全部苦痛でしかない、と思えてくる。思っている。これをどうにかしないと僕は死んでしまう。死んだほうがいいと思いながら、死んだらマズイという気もする。死んだほうがいいと思える理由はだいぶ分かってきたのだが、死んだらマズイと思える理由はまだあんまり分かってない。死んだら数学ができないから、というのはありそうだ。それと少なくとも生殖や扇風機がその理由ではなさそうだということも分かっている。
自明だが僕に何も感情がないわけではない、何も感情がなかったらブログなど書いてない。残りものの感情は確かにあって、生きるためにはそれを手掛かりに僕は強い気持ちを取り戻していかないといけない。
何もしたくない僕が本当は何をして喜び、何をしたいと思っているのか、なるべく早くそれを見つけなければいけない。でなければ死んでしまう。死んでしまうなんて物騒なことばかり言ってしまった。良くないことなのであまり言いたくないが、事実なので言おうと思った。
それとフォロワーの友人が自殺したという話を聞いて、自殺に関するツイートをしないようにしようとも思っていたのだが、そもそも僕はツイッターのIDにsuicideが含まれるので、僕がツイートすること自体が自殺者遺族にとって重圧だというのも正しいと思った。世の中は正しいことが一杯ある。正しいことは良いことだ。そういえば僕は数年前から東大受験総合というスレを見ていてそれで出願期間とか受験の情報を得ていたのだけれど今年は発足しないのかなあ。そろそろ立てられるかなあ。


はやく俺に強い気持ちを与えてくれと思っている。物事に意味があると思えるような、強い気持ちを沸かせてくれる何かを探している。どうやらここにはそれは無さそうなので、この辺で終わらせたい。なんかの漫画で今までの人生の全てを捧げてきた目的を失ってしまったキャラクターが、その空虚な気持ちをどうしようと途方に暮れているときに、「大きな喪失と空虚な気持ちはこれからの新しい生き方見つけるためにある。その間お前を俺が支える」みたいなプロポーズをされて話が終わったのを見た。なるほどなあと思った。