読ん毒

9歳の女児です。東京大学理科1類を目指して浪人をすることになりました。このブログを読むとあなたの貴重な時間が消えます。

2017年5月12日 金閣寺は燃えていた

ここ最近は数学も勉強もインターネットも全てに飽き飽きとしていたので,ひとりでずっと本を読んでいた.ひとりなのはいつもそうだから取り立てて言う必要もないか.何をやってても退屈だと思うときは布団の中に閉じこもるのではなく,集中力が切れるまで他のことすべてを切り捨てて本を読む.ずっと読んでいるとやがて他の物事に対する執着心が再燃してくる.数学面倒だなとか思いながら嫌々と机に向き合うのではなく,逆に3日間くらい数学を断つと「頭の中に数学が足りてない」と中毒症状を起こしてモチベーションが再沸するのだ.俺はこの方法で,かれこれ2年は数学に触ってない.次に数学のモチベーションが湧くのは15年後くらいだろう.

 

 

ということで俺は犯罪心理の本を読んでいた.他にもジェンダー論や,貧困のAV女優の独白『名前のない女たち』などを読んでいた.犯罪心理の本には放火犯の章で金閣寺を燃やした男の話があった.金閣寺が一度焼失したことは小学校の歴史の授業で先生が口ずさんでいたから知っていたのだが,それが事故や戦争によるものではなく,故意的に人の手によって起こされたものだと知って非常に強い興味が湧いた.この地球上の歴史の中に金閣寺が燃えていた瞬間があると思うと,何事も受け入れられるような安心感が生まれる.1950年7月2日未明,金閣寺は燃えていたという事実は二度と変えられずにこの世に存在し続ける.金閣寺炎上事件はaprès-guerre犯罪の1つと言われている.かっこいいフランス語が使いたかっただけなのでアプレゲール犯罪は何たるかを説明する気は無い.犯人の林養賢が金閣寺を焼いた動機についてはWikipediaの記事や三島由紀の『金閣寺』などを参考にすると良い.三島由紀夫の『金閣寺』が金閣寺炎上事件を題材にしているということを俺は今まで知らなかった.

 

とにかく金閣寺を燃やすという気持ちに俺は強く惹かれた.言われてみれば俺は小学生の頃も,修学旅行で金閣寺を実際に見たときも「燃やしてみたい」と思っていたかもしれない.金閣寺には言葉に尽くしがたいものがある.虚飾にしか見えない華やかさや,それへの賞賛,仏教的な矛盾などが渦巻いているように見えて仕方がない.そして,それを燃やして昇華して自分を変えたいという気持ちは俺の中にも,おそらく金閣寺を見る全ての人間の中にあるのではないかと思う.銀閣寺や清水寺,八坂神社を見ても燃したいとは思わないが,金閣寺のみに燃やしたいと言えるような何かが確実に宿っている気がしてならない.

 

それから心理学の本を読んでいて,自分は数学よりも精神医学系の話題の方が興味があるのかもなという気がしてきた.物事を常に分析的に把握したいという気持ちが根強くあって,その中には”人間の心”という曖昧すぎるものを把握したい気持ちも含まれている.もちろん他人の気持ちなんてどこまでやっても分からないし,そもそも自分の本当の気持ちを知ることですら難しい.けれど僕たちの生活に僕たちの気持ちが密接に関わっているのは事実であり,生活の中から切り離しようのない”気持ち”というものを知ろうとするのは自然な考えだと思う.もっと言えばそれを,ぼくらの精神を定量的に,形式的に,学術的に記述して分析して対応することが出来るならそれは非常に有意義な試みになるのではないかと思う.もちろん気持ちなんて外側からではどうやっても,自分自身ですら知り尽くせないものを説明しようとするのは非常に難しい作業だと思うけれど,だからこそやっていけたら良いのではないかなと思う.

 

 

これから自分が精神医学系に進むのか,数学系に進むのかはまだ分からない.そこで東大の進振りが役に立つのかな.進振りの話をするといつも思うのだが日本の大学は全て進振り制度を導入するべきだ.高校の勉強で自分の専門とか分かるわけないじゃん.こういうと進振りで苦しむひとたちもたくさんいると反論されるが,物事を選択するのに葛藤や後悔といった苦しみが存在し得ない訳がない.ましてや自分の将来の専攻を決めるのだから,丁寧な判断や相応の努力が積まれるのは当然だと思う.高校卒業してすぐに専攻を決めるというのは,ごく一部の本当に適職を見つけたひと以外の多くにとって慎重な判断を捨てているだけだと思う.
後悔しない選択肢,と言い続けている人がいるが,後悔しない選択肢というのは存在しないことも全然ありえる.進振りの話だけでなく,僕たちの生活には多くの場面で,「どれを選んでも後悔するが,どちらか1つは選ばなければならない」という回避-回避型の葛藤がある.それを思って「仕方ない」ということも,仕方ない行為だと個人的に思う.赦されるとか忘れるとかそういう働きで物事を終わらせようとするのは間違っていると思う.過去に間違いをした人間は一生自分を責め続けなければならない.僕たちは一生自分を責め続ける勇気がないから「赦される」とかそういう言葉で終わらせようとしているだけだ.赦す行為は他人だけが持つ権利であって,赦されたと言って後悔をやめる権利は本当は誰にも与えられてない.僕たちは後悔を放棄しているだけで,本当は自分の過去の行いに毎晩悔やみ続けなければならない.とか今まで考えていたのだが,数学者Hardyは「自分よりも適切な者がいるのではないかと常に悩み不安になる人間は無能だ」と言っているらしくて俺の心に刺さった.最初は何故そう思うのだろう、と考えたけれど当たり前の話だった。人々が誰かに何かを任せたときに,その任された人が「本当は自分よりも適切な者がいるのではないか」と悩んでいるのは,人々の判断に対する懐疑だ.そもそも,任された人がそのような態度であったら嫌だと普通は思うだろう.僕はそんなことも20年近く生きてて気付いてなかったなあとか思った.とにかく自分には「本当の自分は優れてないが他人が何を履き違えて僕を評価している.あるいは僕が人々を上手く騙したから人々から今の賞賛を受けている」と思う傾向が強い.これは,自分について本当のことを言ってるだけだと今も思うけれど,強すぎる自己否定や謙遜表現だと他人から見られたときには他人を傷つける言葉になるので直さなければならない.そのような考えに基づく行いも人を傷つける.賞賛を受けても嬉しいとは思えないけれど,肯定されたら嬉しいことを最近知った.
例えばテストで100点とってそれを褒められても,僕は「100点取るに至る準備や環境があったから,100点が取れただけで褒められるようなことはしていない」と思うので,僕には本当は賞賛を受け取る機能がないのでは?と悩んでいたところ,「昔から変わらない特徴を褒められたときはどう感じますか?」とフォロワーの方から言われて,そういうときは確かに嬉しいなと思った.
つまり僕は行いへの評価ではなく,今までもこれからも変わらないような自分の性質を評価されるような,端的に言えば全肯定をされて初めて喜べるのだなと気付いた.ああなんか面倒くさい性格に育ったなと思った.満足感が常にない.それは自分が本当に欲しいと思うものを持ってないからなのか,あるいは単純に常に足りてないからなのか,それとも満足する機能そのものが不全しているのか分からない.食欲ですら胃が痛くなるほど食べてもやってくるので面倒くさい.なぜこんなに食欲が出てきたのかよく分からない.食べても体重が微塵も変化しないのは幸いなことなのかな.物欲と性欲と食欲のうち1つが欠けると他2つが強くなるみたいな言説があってそれに当てはまるのかもしれないが,それで考えると3つが欠けているから3つとも強くなっているはずだ.ていうかこの言説の根拠を僕は知らない.マズロー欲求階層説とか?よく分からないのであまり信じてない.満足感や充実感がない.生きていくための充実感を手に入れることを考えなければならない.でも本当はこれからどうすればいいのかなと論理的に考えようとすると,さっさと自殺したほうがいいという結論だけが出てくる.そして人間はなるべく早く自殺したほうがいいという考えは間違いではないと思っている.最も雑な言い方をすれば,生存というエントロピーの増大則に逆らい続ける行いは楽じゃないからだと説明できる.


なんにせよ今は勉強しなければならないのかな.数学の定式化や抽象化、一般化を用いて物事を統一的に把握していく議論の方法は個人的に好むところがある.一方で自然界の現象に面白いとは思えても研究したいと思えるほどの興味はないので,物理学や化学にはあまり興味はない.生物にも興味があるけれどそれも趣味の範囲の話だろう.だから,数学か精神医学とかやっていくために,今は浪人生から脱することを目指す.でもさ,研究して何になるの?楽しいから,お金が欲しいから?楽しければなんになる?お金があって何になる?遊んでいれば何になる?音楽を聴いて何になる?踊っていたら何になる?運動したら何になる?セックスしたら何になる?愛し合ったら何になる?承認さられたら何になる?有名になったら何になる?ささやかな幸せで何になる?新居を構えて何になる?温泉に行けたら何になる?綺麗な景色を見て何になる?仕事に充実があったら何になる?趣味が楽しくて何になる?とかすぐに思ってしまうのは,やはり生きる上で快楽の報酬系に不全があるからなのだろうか.あるいは社会性不安が強かったり回避性が強いのか.よく分からない.人間は楽しさという麻薬を常に獲得し続けなければいけない.ただ,やっていかなければならない.嫌なことから逃げるために.

勉強,バイト,介護,仕事,お金,奨学金,人間関係,恋愛,健康,期待,生存,過去の行い,これからの全てとか人間には抱えるべきものが多すぎる.でも野生動物だったら僕たちみたいな怠け者は親離れして1日で餌を見つけられずに死ぬだろう.兄弟間の餌取り競争ですら負けるかもしれない.メンフクロウの雛兄はお腹が空いてるやつに餌を譲る習性があるらしいからメンフクロウの子供になればよかったのかもしれない.人間は面倒だ.感情があるから面倒だ.でも人間以外はもっと面倒だ.そもそも生存そのものが自然に反していて非常に面倒だ.だからこそ,たまには心の中で金閣寺を燃やしてみるのも良いと思う.ツイッターとか自分とか現実には見たくないものが多すぎる.ああもう全部嫌だ。ここにしがみついてる価値はない。そもそも前から気に食わなかった。イライラするのは割に合わない。って秋田ひろむが歌ってた。ミラクルニキと燃えている金閣寺の心象,それをポケットに入れて生きていこう.数学もツイッターも君たちのことも僕は忘れた.